ゆらぐ蜉蝣文字


第1章 春と修羅
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1.12.5


これに対して、
ホウキダケのような小さい茸は、男性の貧相な性器を指す隠語ないし比喩として、しばしば使われます。

つまり、この作品の舞台は、猥雑に発達した巨大な「毒々しい」女陰と、

成熟した女陰を満足させることができない小さな男根が隣り合わせに存在する場所なのです。

そして、「私」は《谷》──女陰──の色や形を目の当たりにして恐怖を抱きます‥

物語は、小学生の「私」が、理助という馬番の男に声をかけられるところから始まります。

理助はなぜ、「私」に声をかけたのでしょうか?

それは、野葡萄で口の周りをべとべとの紫色にした子どもの卑猥さ、少年の性に理助が反応したからだと思います。

そして、理助は、大空に向かって「噛ぶりつくやうに」淫猥な歌★を歌いながら《谷》へ向かいます。

★(注) テキストには「淫猥な」とは書いてありませんが、「私」が理助によい感情を持っていないことや、「噛ぶりつく」という表現から、補って考えました。

理助は、《谷》に近づくと、「私」の腕をがっしりと掴み、しかも「下の方ものぞかしてやらうか」などと言って、「私」を崖のはじにつき出し覗かせるのです。

「私」は、相手によい感情を持っていないのに、相手の言うがまま、されるままになっている少年として描かれています。
淫猥な意図を持った大人の男によって、恣に犯される少年のように‥

“白いキノコ”と“茶色いキノコ”の対比も暗示的です。「硬くて筋が多」い“白いキノコ”は、生硬な少年の青い性を思わせます。もっとはっきり言えば、少年の白くてきれいな性器そのものです◇
これに対して、古くて“茶色いキノコ”は、大人の陰茎──といってもホウキダケですから、茶色く萎びた小さな性器です。

◇(注) しかも、白いホウキタケの先には、ピンク色の円い頭がついています。賢治は、そこまで書いていませんが。

この対比──小さな性器に価値がないのではなく、むしろ新しい白いものは価値があり、古くなった茶色いものは劣る──には、すべすべしたきれいな少年のチンコ・キンタマに対する作者の選好が現れていると思います。

白いホウキダケを独り占めにして、山のように収穫して行く理助は、作者の無意識の願望を体現しています。

森の空き地での理助と「私」の“キノコ採り”は:
理助は、されるがままの「私」の、白くてきれいなオチンチンとキンタマを思う存分に味わった、「私」は理助にだまされて、理助の古くて茶色いチンコを嗜んだ、と読むことも可能です。

ところで、
ホウキダケの生えている場所は、《谷》からは少し離れています。《谷》の崖にホウキダケがはえているわけではありません。

つまり、ホウキダケの群落が象徴するオチンチンたちは、必ずしも女陰と交わるために存在するわけではないのです。




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