ゆらぐ蜉蝣文字


第1章 春と修羅
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1.12.2


参考までに↓シャガ(スプリング・エフェメラルの中では非常にありふれています)の写真を出しておきますが、

よく見れば、「しきりと歪み合ひながら」とはどういうことか、わかるかと思います。
私たちは、路傍でこのような花々を見ると、その美しさ、可憐さに心奪われてしまいますが、

たしかに賢治のようにじっと観察してみれば、歪んでもいるし、邪悪なたくらみをそこに感じとることもできるのです。



スプリング・エフェメラルの、そうした特異な面を表現していること、

また、テーマのそうした奇怪さを、「硝子様鋼青のことば」という硬質のイメージによって即物化し、怪奇趣味に陥ることから救っているのが、この詩の優れた点だと思います。。

しかし、それにしても、
2つ前の「春光呪咀」にしろ、作者には、こういうのが多すぎないか?‥ 彼は、道端の可憐な花に心ときめくことは無かったのだろうか?‥

この点は、あとで戻ってきて検討することにしたいと思いますw

さて、宮澤清六氏の解釈を見ておきたいと思います(『兄のトランク』,pp.130-132.):

「『谷』の中の、顔いっぱいに赤い斑点のある妖女ということばから私は痘瘡を感じ、それからこの詩
〔『痘瘡』━━ギトン注〕を思い起す」

「荒地でマクベスが三人の妖婆に不思議な謎をかけられ、その予言と同し惨事が次々起って行ったように、当時の彼がこれら三人の妖婆から何かを暗示され、その暗示されたような出来事が次から次と起って行ったかどうかを私は知らない。
 けれども彼が『谷』を書いた二年後には痘瘡が流行し、それから此の地方を襲ってきた冷害を、あたかも予期したかのように彼独特の肥料設計で、その対策に懸命だったことを知っている。」

清六氏が言及している「痘瘡」は、『春と修羅・第二集』に収録された↓この詩です。

「  痘瘡(幻聴)
(#21,1924.3.30.)
 どうもこの
 光波の少しく伸びるころ
 ひのきの青くかはるころは
 ここらのおぼろな春のなかに
 紅教が流行しだしていかんのです」

 これは、1925年9月に森佐一(森惣已池)の同人誌『貌』に発表したものですが、次のような異稿があります:

「  はしか
 えゝ
 どうもこの
 日脚の急に伸びるころ
 かきねのひばの冴えだすころは、
 こゝらの乳いろの春のなかで
 じつに愚怪なじつに愚劣な紅教が、
 奇怪に流行しだすのですな」
(【下書稿(2)手入れ@】)

清六氏は、痘瘡(天然痘)を、「赤い不気味な死の仮面」と呼んで、1924年頃にじっさいに天然痘が流行したこと、また、清六氏の文章を発表した1940年5月頃にも、いままさに流行していると述べています。

しかし、賢治は、「はしか」に題名を変えていることから考えても、天然痘の流行を、冷害や災厄の不気味な前兆として真剣に恐れていたのかどうか、疑問に思います。

もっとも、「痘瘡」の副題「幻聴」から見て、この作品が「谷」と何か関係があることは頷けます。

「顔いつぱいに赤い点うち」

には、疫病のイメージがあるのかもしれませんし、「三人の妖女たち」の相談は、疫病や災害を惹き起こすことだったかもしれません。。

しかし、詩「痘瘡」の「紅教」も、天然痘や疫病より、もっと何か別のものを指している言い方ではないでしょうか?
「じつに愚劣な紅教」は、当事者たちが喜んで、はやらせているような感じですね‥

「こゝらの乳いろの春のなかで
 じつに愚怪なじつに愚劣な紅教が、
 奇怪に流行しだす‥」

とまで執拗に言っていますが、作者はよほどこの「紅教」が気に入らないようです‥


☆(注) この過度の執拗さから逆に、「愚怪」「愚劣」と言いながら、作者自身はその「紅教」を楽しんで書いているとも取れなくはありません。「ひのきの青くかはるころ」「かきねのひばの冴えだすころ」という明るい叙景からも、そう言えます。しかし、「紅教」はそれで解決するとしても、「谷」の「顔いつぱいに赤い點」のある「妖女」たちを同様に理解するのは困難です。

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