ゆらぐ蜉蝣文字


第1章 春と修羅
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1.9.21


最後に、最近の研究者による解釈として、山下聖美氏☆を取りあげたいと思います。

☆(注) 山下聖美『検証・宮沢賢治の詩 T 「春と修羅」』,2002,鳥影社.

1冊の本全部が、この詩「春と修羅」一篇に関するものです。120件に及ぶ・この詩を論じた文献の紹介と、著者の「『春と修羅』解読」(pp.28-67)ほかの論文が収められています。

「私は『まことのことば』を、単純に、本当に言いたいこと、だと考える。」

「どんな言葉も、心の中に渦巻いている思いを収納できない。」

「『春と修羅』の『おれ』もまた、どんな言葉にも表現できない激しい感情を持っている。心の内に生じた思いを表す『まことのことば』を失った状態にいる。そして、『まことのことば』を探すために、ある時は‥膨大な言葉の群れを書く。そしてある時は沈黙する。」

「これはまさに言葉との闘いである。『ひとりの修羅』である『おれ』は言葉と闘っていたのだ。‥この闘いの跡が『春と修羅』という言葉の群れである。」

つまり、「あらゆる言葉をつくして尚、とらえられぬもの」──体験の概念化から外れてしまった「本当に言いたいこと」「心に生じる激しい思い」を、なんとかして表現しようとして、「まことのことば」をめぐる「闘い」を繰り広げているのが「修羅」である「おれ」の姿だと言うのです。

山下氏によれば、「いちめんのいちめんの諂曲模様」とは、この詩の文字列のようにぎっしりと書き付けられた「言葉、つまり文字の大群」にほかならない。

「『春』の光の中で『くろぐろ』とし、一列に並ぶ『ZYPRESSEN』」や「黒い木の群落」もまた、一列に黒々と並ぶ文字、言葉にほかならない。」

「『おれ』は文字を『黒い木』と見ることによって、『二重の風景』を持つことになるのだ。」

「『まことのことば』を失って、それでも書き続けられてしまう言葉はまるで『かなしくしげ』る『枝』の如くだと『おれ』は考えたのだろう。」

「喪神の森」とは、「『神』を失った森、『神』のいない森」である。「森」とは、作者にとっては「書かれた言葉の群れでもある」のだから、これは、「書かれた言葉の群れに、絶対、というものがない」ことを意味する。つまり、「『まことのことば』を失った状態と重なっていく。」

そして、翼を広げて「『とびたつ』黒い『からす』」とは、ギトンのこの検討の最初に見ましたように、この詩篇の文字列全体の形にほかなりません。

作品の叙景の読み方について、山下氏のユニークな点は、作者「おれ」の立ち位置を、

「『おれ』は『日輪』のある上の方、天にいる。」

と読んでいることです。つまり「ひかりの底」とは、天の丸天井すなわち“お椀の底”であると見るのです。したがって、「黒い木の群落」も「ZYPRESSEN」も、天の“底”から地上に向かって逆さまに伸びていることになります。

しかし、「農夫」は地上にいます。「おれ」は、天の底から地上を見上げ、「農夫」を見上げているのですが、「農夫」から見ると、「おれ」から見くだされているように見えるのです。

この行き違い、視点の不一致に対して、「おれ」は、

「ほんたうにおれが見えるのか」

と言うのです。



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