ゆらぐ蜉蝣文字


第1章 春と修羅
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1.9.20


このような通説的解釈は、@もっぱら作者の心理的内省的思惟として《心象スケッチ》を読もうとする傾向、A“宇宙意志”をはじめとする作品外の図式を前提して、作品中の各字句を、これに当てはめて理解する傾向が顕著です。
その結果、作者がこの作品に盛り込んだ“ものがたり”は気づかれないで通り過ごされてしまうことになります。いわば、

「ほんたうにおれが見えないのか?」

という「修羅」の叫びが聞こえてきそうですねw




さて、次に取り上げたいのは、作者の令弟・宮澤清六氏の解釈☆です。「栃ノ澤龍二」の筆名で1940年に雑誌掲載されたもので、研究というより、賢治作品をもとにしたノンフィクションないし散文詩のような文章ですが、これもやはり作品に対する一定の“読み”を前提とするものです。

☆(注) 栃ノ澤龍二「『春と修羅』への独白、三 春と修羅交響詩の構図」,in:天沢退二郎・編『「春と修羅」研究T』,pp.62-70. 宮沢清六『兄のトランク』,1991,ちくま文庫,pp.114-123.にも収録。

「日光が驟雨よりもはげしく降りそそぐ四月の野原」

「光線があまりに劇しく地面に降れば‥かげろふがぎらぎら湧いて来る。」

樹木も枯草の地下茎も「緑色の甘い樹液が流れ出」す「楽しい太陽系の四月の気層のひかりの底」なのに、
作者は「ボロボロの実習服を着て、」阿修羅のように髪を振り乱して「ギリギリギリギリ歯軋りしながら向ふから‥歩いて来る」。何が彼をこんなにいらだたせるのか?

「幾億の巧智にたけた蜘蛛やなめくぢや狸やねずみ」、世界中に「張りめぐらされた精巧きはまる舶来製のトラップやかすみあみ。」「億千の鳥やけものや羽虫のむれ。」「それらが毎日殺し合ったりだましたり、接合したり離散したり、」

「しかもそのまたひとつひとつが、どれでも彼自身の中のみんなであることがあまりにも明らかで、世界ぜんたいのさいわひが‥遠方であることに心痛み、修羅の怒りは燃えさかり、‥風景もなみだにゆれるのだ。」

日が翳れば、修羅の怒りはいよいよ激しく燃え、「檜や糸杉も忿りに燃えて、‥枝を空にのばすのだ。」

「喪神の森の梢から、ゆらめきながら飛び立つからすは、‥あのゆがめられた怪奇な姿、アラン・ポオの大鴉(レーヴン)だ。」

「幽霊写真のやうにやつて来る」農夫も、「蓑を着て頸をかしげ、彼の方をいぶかしさうに見て行く」「ほんとうに阿修羅とも見えるのであらうか。」

「空に向つて大きく叫んで見ても、唯だほの白く肺のちぢまるのがわかるだけ。」

「(もう……
  大循環の風のなかに……
  とけこんでしまひたい……

  グスコーブドリのやうに。)

 修羅のはげしい慟哭(なげき)のなかを、日光が燦々と降りそそぐ」

清六氏は、作者の「いかり」の理由を、「億千の鳥やけものや羽虫のむれ」「が毎日殺し合ったりだましたり」しているこの世界の不条理に対する憤り、そして、“万人の幸福”を希求する狂おしいほどの作者の願いと絶望の悲しみとして、読み取っています。

つまり、非常に仏教的な解釈なのですが、
作者の心情の理解としては、同僚の‘卑屈さ’に端を発した行き場のない憤りと、心の奥底の“願い”を言葉にして表明することが許されない悲しみを読み取るギトンの解釈と、同じ方向を示しているのではないかと思います。

「ひらめいてとびたつからす」について、エドガー・アラン・ポーの有名な詩「大鴉(The Raven)」との繋がりを指摘されています。
ポーの「大鴉」は、深い意味のこめられた形象なので、この繋がりは、たしかに追究してみる価値があるかもしれません。「大鴉」が、失われた恋人のおもかげとともに忍び入ってくることも、見逃せません。

しかし、ポーの「大鴉」が、深夜の「私」の部屋から決して去ろうとしないのに対し、
賢治の「春と修羅」の「からす」は、ぴかっと閃いて(あるいは、ゆらゆらと揺れながら)どこかへ飛び立って行くのです。

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