ゆらぐ蜉蝣文字


第1章 春と修羅
56ページ/114ページ


1.9.19


まず、恩田逸夫氏は、第2次大戦後の宮沢賢治研究の中で標準的・通説的地位を占めていると思われますので、最初に俎に乗せたいと思います。

恩田氏☆は、標題の「春」と「修羅」を対立概念と解し、その他さまざまな二項対立を詩文から読み取って、すべてを、《春》⇔《修羅》という対立構図の中に収めようとします(p.151)

「まことのことばはうしなはれ」

の「まこと」は、賢治の中心思想である“宇宙意識”ないし“宇宙意志”のことである。「まことのことば」とは、「『まこと』の<思想、考え方>ということです。」(pp.152,154)
“宇宙意志”は、「万象をして完全なる調和という浄福な境地へ導こうとして」おり、「この場合、『四月の気層のひかり』、『かがやきの四月』、つまり『春』というものに象徴されています。」★

これに対して、《修羅》とは「『底』をうごめく憐れな存在」であり、「人間を退落した‥段階に在る」自分の「精神的境位」を、自省して描いているのだと云います。
「輝かしい四月の天と対比されるからこそ自己の卑小さ醜さが心に痛い程に感じられ」る、それが「いかりのにがさまた青さ」なのだとします。この詩篇の冒頭4行は、「彼の心象が諂曲の様相である」ことを述べているとし、「諂」とは、自分を甘やかす傾向、「曲」とは、他人を曲解する傾向を言い、自戒して言っているのだとするのです(pp.153-154)
そこからまた、「はいいろはがね」とは、「いらいらした憂鬱な心理の表現」だとします◇

☆(注) 恩田逸夫「詩篇『春と修羅』の主題と構成」,in:天沢退二郎・編『「春と修羅」研究U』,1975,学藝書林,pp.147-157.

★(注) 『四月の気層のひかり』、『かがやきの四月』といった語句の切り方にも問題があります。「ひかり」「かがやき」は《春》つまり調和的“宇宙意志”の現れ、「底」は、これと対立する《修羅》意識の現われ──という図式にあてはめようとするために、このような切り方になってしまうのです。しかし、詩の自然なリズムにしたがって、「四月の気層 の ひかりの底 を」「あゝ かがやきの 四月の底 を」と読むのが、作者の意志にもかなっているとギトンは考えます。つまり、修羅がうごめいている“底”は、光り輝く場所であり、修羅は春とともに輝いているのです。

◇(注) 上記,p.152. 恩田氏は、『冬のスケッチ』44葉の「灰いろはがねのいかりをいだき」を典拠として挙げていますが、『冬のスケッチ』の「はいいろはがね」「灰鋳鉄」などは、本来は、春の夜の町外れの印象・情緒を指す表現として使われています。



38草地の黄金をすぎてくるもの

以下の《農夫の登場》場面については、恩田氏は、「農夫に呼びかける形式で、自分の意識を客観的に見ようとしてい」るのだとし、「ほんたうにおれが見えるのか」は、「自分は修羅の意識に燃やされているのだが、そんな自分が平常の人間に見えるだろうかということです。」とします(p.156)。気持ちが落ち着いて内省的になり、「いかりはかなしみへと移行」したとしていますが、「かなしみは青々ふかく」の「青」は「いかりのにがさまた青さ」の「青」と同じだから「二つの感情は同質のものです。」と片付けてしまいます(p.156)◆
このように、恩田氏の読み方では、「農夫」は風景の一部でしかなく、作者はそれを借りて自省の内言語を発しているにすぎないことになります。その流れで、「かなしみは青々ふかく」に現れた「修羅」の感情の大きな転換も、見過ごされてしまうのです。

◆(注) 「いかりのにがさ」に唾し歯軋りしながら滲む涙と、われを忘れて「青々ふか」い悲しみに沈みこんでゆく純な涙とが、同質の感情でありえないことは、前頁までに述べたとおりです。

そして、

48あたらしくそらに息つけば

以下の最終段落も、《修羅》=「底」 ⇔ 《春》=天=「まこと」=“宇宙意識”という図式をあてはめて解釈され、
「修羅から脱却し向上しようとする救い」「宇宙意志に即応して万人のまことの幸福を実現するための仕事に‥全力を尽そうとする」「新たな行動への決意」が示されているのだとするのです(p.157)■

■(注) 「ほの白く肺はちぢまり」と明確に述べられている作者の肺疾への恐れ、嘆きは完全に無視され、恩田氏の“宇宙意志”の前で、生身の賢治は木っ端微塵にちらばってしまいます。なお《印刷用原稿》初期形は、天の「魯木」の群落が伸びてきて作者の胸の「はいいろはがね」を突き通し、作者の「修羅」の身体は砕けて空に散らばる、という理解もできるかもしれません。

.
次へ
前へ  

[戻る]
[TOPへ]

[しおり]






カスタマイズ