ゆらぐ蜉蝣文字


第1章 春と修羅
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1.9.18


前に引用した保坂宛手紙に「修羅の成仏」という言葉がありましたが、それは1920年段階での賢治の目標だったのだと思います。
しかし、『春と修羅』の賢治は、「修羅の成仏」ではなく、「修羅」が「修羅」のままで、人として生きる道を探っているように思うのです。人として人と交わること──それを教えてくれたのが、「修羅」の姿に目を留めて、彼に静かに目を注いだ「農夫」なのだと思います。



. 春と修羅・初版本

44ZYPRESSEN しづかにゆすれ
45鳥はまた青ぞらを截る

ここに現れているのは、霊界の「黒い木」でも「からす」でもなく、この世界、人間界のヒノキであり、「春の鳥」です。
ヒノキ(ツィプレッセン)の枝は静かに揺れて、悲しみに咽ぶ「修羅」をやさしく見つめるのです。。。

「まことのことばはここになく」

その意味は、もう明らかだと思います。
心の奥底の願いをじっと秘めて、いま、「修羅」は新たに“再生”しようとしています。

この「農夫」のモデルが、当時実際にいたのかどうかですが、
いかにも、誰か特定の人を指しているように思える詩想の流れが感じられます。

菅原千恵子氏は、この「農夫」は保阪嘉内を指していると論じておられます:

「賢治がここでまばゆい気圏の底に自分の姿が本当に見えるか、とけらをまとった農夫に問うているのは、かつて青春を共に過ごした男──いまは自分と別れて農業への道へと歩き出した男──に修羅と変わり果てた自分の姿ではあるけれど、まばゆい気圏の底にはまだ自分の姿が見いだせるかと確認しないではいられなかったからではないのか。」

(『宮澤賢治の青春』p.159.)

たしかに、それは一理ある議論だと思うのです。
「農夫」は、元恋人の嘉内であればこそ、「農夫」に遭ったあと洗われたように深い悲しみにしずむ「修羅」の純な心は、よく理解できるからです。

しかし、ギトンは最近、もうひとつの可能性に思い当たっています。
それは、作品「春と修羅」の内容が確定したのは1922年4月ではなく、1923年後半であったという推定を前提した場合なのですが、

1923年6月から、花巻の無教会キリスト者斎藤宗次郎と宮澤賢治の交友が始まっているのです。ギトンは、斎藤宗次郎が「農夫」の原型ではないかという気がしているのですが。。

いずれにせよ、この「農夫」に象徴された賢治の出会いは、仏教よりも、何かもっと西欧的な開かれた文化・思想との接触(賢治が嘉内から受けた影響も、トルストイのキリスト教的ヒューマニズムでした)のように感じます。

48あたらしくそらに息つけば
49ほの白く肺はちぢまり
50(このからだそらのみぢんにちらばれ)
51いてふのこずえまたひかり
52ZYPRESSEN いよいよ黒く
53雲の火ばなは降りそそぐ

この最後の段落の意味は、もうはっきりしたと思います。

「農夫」との出会いに刺激されて、「あたらしくそらに息」づき、“再生”を願う「修羅」。しかし、それはそうかんたんなことではなく、

ツィプレッセンの枝がやさしくそよぎ、イチョウの梢が光り★、太陽が雲の向こうから光の火の粉をそそいでくる中で、
「修羅」は円環を描いて、この詩の最初に戻るのです‥

★(注) なお、さきほど見たように、「喪神の森」は、あとから推敲で加えられた語句ですから、それよりも前から書いてあった「いてふのこずえ」を「喪神の森」と見るのは無理なようです。

以上で、作品「春と修羅」を終えたいと思いますが、
最後に、この詩に関する諸家の解釈を、かんたんに見ておくことにします。

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