ゆらぐ蜉蝣文字
□第1章 春と修羅
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1.9.14
今度は、前後も含めて、すこし長いですが一つづり全体を引用してみたいと思います:
「 ※ おもかげ
心象の燐光盤に
きみがおもかげ来ぬひまは
たまゆらをほのにやすらふ
そのことのかなしさ。
天河石、心象のそら
うるはしきときの
きみがかげのみ見え来くれば
せつなくてわれ泣けり。
※ 寂静印
3ぱんのかけらこぼれ
いんくの雫かわきたり。
──────────────────
※
1九時六分のかけ時計
その青じろき盤面(ダイアル)に
にはかにも
天の栄光そゝぎきたれり。
※
2しろびかりが室をこめるころ
澱粉ぬりのまどのそとで
しきりにせのびをするものがある
しきりにとびあがるものがある
きっとゾンネンタールだぞ。
※
3さかなのねがひはかなし
青じろき火を点じつつ。
まことはかなし
──────────────────
1さびしき唇
※
2栽えられし緑の苣を見れば
あらたに感ず海蒼色のいきどほり
陽光かたぢけなくも波立つを。
※
3日輪光燿したまふを
かたくななるわれは泣けり。
※」(『冬のスケッチ』,6葉§2 - 7葉 - 46葉§3)★
★(注) 6葉 → 7葉 は問題ないのですが、7葉 - 46葉の接続には問題があります(『新校本全集・第1巻・校異篇』p.148-158.)。しかし、下で見るように、この3つの断片から文語詩「会計課」が作られているので、意味の上で何らかのつながりは、あるのだと思います。
「おもかげ」と題された章は、誰かに対する恋愛感情が感じられます。これだけで相手を決めることはできませんが、“別れた”あとの保阪の可能性はあると思います。
「寂静印」という題は仏教用語で、“他の宗教とは異なる、仏教の悟りによる静寂な境地”という意味だそうです。
場所は学校の職員室で、誰もいない静寂から、日曜日の朝と思われます。
冬ですから、傾いた陽が部屋に射しこんで掛け時計の盤面を照らし、ストーブの湿気で白く曇った窓ガラスの向こうで、太陽が◇背伸びをして中を覗こうとしているように見えます。
◇(注) 「ゾンネンタール」は、太陽(独語:ゾンネ Sonne)の擬人化と思われます。
「さかなのねがひはかなし
青じろき火を点じつつ。
まことはかなし
──────
さびしき唇」
「さびしき唇」は、(もし7葉 ↔ 46葉の接続が間違っていなければ)胸の奥の願望を言葉にすることができない“さびしさ”、あるいは、遠く離れた恋人と会えない“さびしさ”だと思います。
「栽えられし緑の苣を見れば」以下は、学校の促成栽培用温室に場所を移しているようです。
また、ふつふつと、理由の分からない憤りが胸の奥から湧いてきます。
このように、賢治が考えている──あるいは、求めている仏教の概念は、かなり広いものだという気がします。恋人を想う気持ち、あるいは広い意味での性欲さえも、賢治の仏教の“悟り”は含みこんでいるようです。
ですから、「まこと」の願い、あるいは「さかなのねがひ」は無意識の深層だからといって、それをフロイト的な剥き出しの性欲衝動のように考えるのは正しくないかもしれません。
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