ゆらぐ蜉蝣文字


第1章 春と修羅
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1.9.13


しかし、『冬のスケッチ』には、上とは違う意味で「まこと」という語を使っている場合もあります↓

「  ※
 みづうみのそこの
 ねがひはかなし
 青じ[ろ]き火を点づずれば
 たちまちにわれそを消されつ→たちまちにわれそを封じらる→たちまち泥をいただきぬ
 みづうみのそこの
 まことはかなし」
(『冬のスケッチ』,7葉,§3)

  ↓

「  ※
 さかなのねがひはかなし
 青じろき火を点じつつ。

 まことはかなし」
(『冬のスケッチ』,7葉,§3【手入れ@】)

  ↓

「  ※
 さかなのねがひはかなし
 青じろき火を点じつつ。

 みづのそこのまことははかなし」
(『冬のスケッチ』,7葉,§3【手入れA】)

原稿はこのように変遷していますが、「まこと」の語義は一貫しているようです。ここでは、「みづのそこの/まこと」と言っていますから、どこか遠くにある高い目標の意味での「まこと」とは異なると思われます。

「さかなのねがひはかなし
 〔…〕
 まことはかなし」

という対句から、ここで言う「まこと」は、「さかなのねがひ」と同じものです。
「みづうみのそこの/ねがひはかなし」とも言っています。

おそらくこれは、作者の心の深層──無意識の奥底にある「ねがひ」──願望ではないでしょうか?
心の奥にある究極の願い、それが、ここで言う「まこと」なのです。

もしかすると、宗教的な目標とは、正反対のものかもしれません‥

少なくとも、禁欲的なものでないことは明らかです。


「青じ[ろ]き火を点づれば
 たちまちにわれそを消されつ」

「青じ[ろ]き火を点づれば
 たちまちにわれそを封じらる」

「青じ[ろ]き火を点づれば
 たちまち泥をいただきぬ」

と言っていますから、その「ねがひ」を表に出すことは、禁じられているのかもしれません。「泥をいただきぬ」──バチがあたった、みたいな言い方ですね。。

「みづうみのそこ」は、無意識の深層をイメージする言葉ですが、
「さかな」は、どんなイメージでしょうか?

『貝になりたい』という映画がありますが、
魚とか貝とか…“もの言わぬ存在”ではないでしょうか?

心の奥にある究極の願望、しかしそれは言葉にならない、また、外から見えるように「火を点づれば」たちまち消され、封じられてしまう…

「まことのことばはうしなはれ」

とは、そういうことではないでしょうか?



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