ゆらぐ蜉蝣文字


第1章 春と修羅
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1.9.12


. 春と修羅・初版本

12砕ける雲の眼路をかぎり
13 れいらうの天の海には
14  聖玻璃の風が行き交ひ
15   ZYPRESSEN 春のいちれつ
16    くろぐろと光素(エーテル)を吸ひ
17     その暗い脚並からは
18      天山の雪の稜さへひかるのに
19      (かげらふの波と白い偏光)

20      まことのことばはうしなはれ
21     雲はちぎれてそらをとぶ
22    ああかがやきの四月の底を
23   はぎしり燃えてゆききする
24  おれはひとりの修羅なのだ
25  (玉髄の雲がながれて
26   どこで啼くその春の鳥)



「眼路(めぢ)」は、目で見通した範囲。つまり、視界。
「聖玻璃」については、山村暮鳥の詩集『聖三稜玻璃』の影響が指摘されますが、この作品ではあまり関係がないと思います。
のちほど、作品「樺太鉄道」で取り上げる予定です。

「光素」の英語名は、エーテルではなくフォトンです。「エーテル」は、光波を伝える媒質として宇宙に充満していると思われていましたが、アインシュタインの特殊相対性理論で、その存在は否定されました。
賢治が「光素」に「エーテル」とルビを振ったのは、有機溶剤のエーテルの匂いやさらさらした軽い液体のイメージを、太陽光線の描写に加えたかったのでしょう。

「まことのことばはうしなはれ」

そろそろ、この不確定概念にアタックしましょうか‥w

「げにもまことのみちはかゞやきはげしくして
 行きがたきかな。行きがたきゆゑにわれと
 どまるにはあらず。おゝつめたくして呼吸
 もかたくかゞやける青びかりの天よ。かなし
 みに身はちぎれなやみにこゝろくだけつゝ
 なほわれ天を恋ひしたへり。」
(『冬のスケッチ』,45葉,§5)

おそらく、宮沢賢治の「まこと」「ほんたう」という語に対して多くの批評家・研究者が受け取っている意味は、↑この例のような場合だと思います。この「まこと」は、本人の外部にある高い目標のようなものです。仏教的な意味かもしれませんが、そればかりではないかもしれません。
しかし、ここでは、おそらく仏教的なもので、賢治は、「行きがたきかな」と言っています。
「かなしみに身はちぎれなやみにこゝろくだけつゝ」とも言っていますから、この「まことのみち」は、賢治の悲しみや悩みに答えてくれるものではなく、かえって、悲しみや悩みを抑えなければ目指して行けないもののようですね。。。

菅原千恵子氏も指摘されるように☆、この時期の賢治は、仏教の信仰に対する疑いが非常に大きくなっていたのだと思います。

☆(注) 『宮沢賢治の青春』,角川文庫,pp.151-153.



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