ゆらぐ蜉蝣文字


第1章 春と修羅
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1.9.11


当時の賢治の保阪宛書簡を見てみますと、そのへんの事情が分かります:

「暫く御無沙汰いたしました。お赦し下さい。度々のお便りありがたう存じます。〔…〕学校で文芸を主張して居りまする。芝居やをどりを主張して居りまする。けむたがられて居りまする。笑はれて居りまする。授業がまづいので生徒にいやがられて居りまする。
春になったらいらっしゃいませんか。関さんも来ますから。 さよなら。」

([1922.12.]保阪嘉内宛)

恋人としては“訣別”した後も、賢治は保阪を心の支えにしていたことが分かります。実現はしなかったようですが、↑手紙にあるように、保阪が花巻の賢治を訪問する計画もあったようです。

“訣別”以前の嘉内宛書簡では、憤りの発作について詳しく告白しているものもあります([1920.6-7.])。

学校でムシャクシャした時に、保阪を思い出していたらしいことも、↓次の下書稿から分かります:

灰鋳鉄のいかりをいだき
われひとひらの粘土地を過ぎ
がけの下にて青くさの黄金なるを見
がけをのぼりてかれ草をふめば
雪きららかに落ち来りけり

あゝサイプレス一列黒くならべる
きみをおもひておどる胸かな」

(〔卑屈の友らをいきどほろしく〕【下書稿(2)手入れ@】)

「きみをおもひておどる胸かな」の「きみ」は保阪ではないかと思います。
暗い詩行が続いた後で、急に「おどる胸かな」は、変な感じがするかもしれませんが、
賢治は保阪に↓こういう手紙を書いていたことがあるのです:

「〔…〕私なんかこのごろは毎日ブリブリ憤ってばかりゐます。〔…〕いかりがかっと燃えて身体は酒精に入った様な気がします。机へ座って誰かの物を言ふのを思ひだしながら急に身体全体で机をなぐりつけさうになります。いかりは赤く見えます。あまり強いときはいかりの光が滋くなって却て水の様に感ぜられます。遂には真青に見えます。確かにいかりは気持ちが悪くありません。〔…〕私は殆んど狂人にもなりさうなこの発作を機械的にその本当の名称で呼び出し手を合せます。人間の世界の修羅の成仏。そして悦びにみちて頁を操ります。〔…〕」

([1920.6-7.]保阪嘉内宛)

したがって、

「あゝサイプレス一列黒くならべるを」

も、作者としては、暗い気持ちではないのだと思います。むしろ、その黒い輝きに、自分の胸の底と感応し合うものを感じて、わくわくしているのだと思います。

これが、

15ZYPRESSEN 春のいちれつ
16 くろぐろと光素(エーテル)を吸ひ

の意味です!

つまり、ツィプレッセンとは、サイプレス(糸杉)の・やさしく背高のっぽの姿をイメージしたもので、
その実体(作者が実際に見てスケッチしていたもの)は、前の【下書稿(2)手入れ@】にあったように、ヒノキなのです。

たしかに、ヒノキの樹形は、糸杉ほどではありませんが、きれいな細長いスペード形をしています。

なぜ「サイプレス」ではなく、ツィプレッセンというドイツ語を使ったかというと‥
語調のためだと思います。

‥というだけでなく、おそらく(想像ですが)保阪との間では、ヒノキをツィプレッセンと呼んでいたのだと思います。。。



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