ゆらぐ蜉蝣文字


第1章 春と修羅
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1.9.10


ところで、←前頁で引用した44葉ですが、(おそらくずっとあとになってから)何度か改作されて、最後は、〔卑屈の友らをいきどほろしく〕という文語詩になっています。

その改稿の過程を追って行くと、1922年のスケッチメモの際に、何があったのかが分かってきます:

「まひるのひかりに憤りに
 ときに灰鋳鉄の感触ありと
 なかばは風のこゝちして
 そのひとひらの粘土地を過ぎ
 がけにて青くさ黄金なるをおぼえ
 がけをのぼりてかれ草をふめば
 雪きららかに落ち来りけり

 ときに一列ひのきはならび
 卑屈なる朋らに
 灰鋳鉄のいかりを投げよ。」

(〔卑屈の友らをいきどほろしく〕【下書稿(2)手入れ】)





憤って興奮して歩いていた時に、作者の胸の奥底にある・なにか硬いものに、コツンとぶつかったような感触があったのだと思います。それを作者は、「灰鋳鉄」とか「はいいろはがね」という言葉で表現しているのです。

しかし、それにぶつかったとたんに、かえって作者は、夜風に吹かれているような快ささえ感じて
──「なかばは風のこゝちして」──湿地の泥炭のぬかるみや、お城の石垣のがけを、飛ぶように走るのです。

青くさ黄金なるをおぼえ

うすく萌え出た若草のじゅうたんも、作者の目には金色に見えるのです。怒りのあまりそう見えるのかもしれませんが、もっと何か神々しい力が、働きかけているのかもしれません。。

「ときに一列ひのきはならび

は、「春と修羅」の「ZYPRESSEN 春のいちれつ」を連想させますが、ほかの下書稿ではもっとはっきり分かるので、↓そちらで見ましょう。

「卑屈なる朋らに
 灰鋳鉄のいかりを投げよ。」

「卑屈なる朋ら」は、農学校の同僚教師たちのことですが、どうして「卑屈」だなどと非難しているのでしょうか?‥↓佐藤勝治氏の解説を見たいと思います:

「このときのいかりの原因について、私は自由教育論争(じつはべつにこう立派に銘打ったものではなくて、単に生徒に劇をやらせる、やらせてはならぬとの、校長((畠山栄一郎))との言い争いだったと思うが)〔…〕
 大正七、八年頃から昭和の初め頃にかけて(例の『赤い鳥』の発行に合わせたように)第一次世界大戦後に、ソ聯という社会主義の国が生まれたことが大きな機縁となって、世界的規模で、自由主義、民主主義が謳歌された。日本の教育界も例外ではなかった。コチコチの明治教育から脱しようとする自由主義教育が叫ばれ実行されたのである。つとに賢治の親友保阪嘉内は、進歩的教育県である長野☆に生まれ育っているから、新らしい思想に目覚めていた点では、はるかに賢治の先輩格であったらしい。
 〔…〕とにかく、教員となった賢治は、にわかに教育雑誌なども読んで教育界の現況を知ったものと思われる。そのころ、いま云った自由主義教育の一端として学校劇がさかんに行われていたのである。
 〔…〕
 当然新米教員の賢治が、学校劇を生徒にやらせようとしても、養蚕講習所から脱皮したばかりで〔…〕賢治の新らしがり教育に反発するであろう。もっとも校長以外は二十歳代の若い人たちであったから、校長の居ない職員室では賢治の新知識に共鳴もし、いっしょにやろうと手を叩いて賛成もしたに違いない。
 けれどもそこはサラリーマン、宮仕えのかなしさ、校長がどっしりと椅子に座った前では、新米賢治がいかに論じても、同僚はみなぴたりと黙して語らなかったに相違あるまい。
 〔…〕そこのところがよくのみこめず、校長の居ない時と居る時との豹変振りにびっくり仰天、腹を立てたにきまっている。〔…〕孤立した自分のみじめさを知った賢治は、初めて味わう悲哀であった。
 そこで職員室をとび出し、雪の崖やお城の坂道を、息を切らして駆け回るのである。」☆

☆(注) 佐藤勝治『“冬のスケッチ”研究』,増訂版,1984,十字屋書店,pp.332-334. なお、佐藤氏は誤解していますが、保阪嘉内の故郷は長野県ではなく、山梨県北巨摩郡駒井村(現・韮崎市)です。



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