ゆらぐ蜉蝣文字


第1章 春と修羅
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1.9.6


. 春と修羅・初版本

38草地の黄金[きん]をすぎてくるもの
39ことなくひとのかたちのもの
40けらをまとひおれを見るその農夫
41ほんたうにおれが見えるのか

高貴な“金色”の空間を「すぎてくる」農夫は、単なる近所のお百姓さんではなく、この「修羅」にとって特別な意味のある人物だろうと思われます。

ギトンには、この「草地の黄金」が、「おれ」と同じ高さの地上ではなく、
晴れ上がった青空高く張り渡された蜃気楼のような草原に思われるのです。

あるいは、天上の世界から地上に向かって張られた架け橋のようにも思われます。。。

しかし:

39ことなくひとのかたちのもの

と言うのですから、この農夫は、「修羅」ではなく人間です。
あるいは、まったく人間の「かたち」をしています。

41ほんたうにおれが見えるのか

これも、しばしば問題になる行です。これをどう解するかで、この詩全体の解釈‥それどころか、宮沢賢治という人物の人となりが左右されることさえあるようです‥w

しかし、作者と作品は、ある程度切り離して考えるべきだと思います。宮沢賢治のように、童話にしろ詩にしろ…非常に多義的な作品を残した人であれば、なおさらのことです。

私たちは、「おれ」を、作者とは一定程度切り離された、モディファイされた‥一般化・抽象化された世界の「修羅」と考えてきたのですから、

この「農夫」も、当時の花巻地方の農民とは切り離して考えるべきです‥

そのように考えれば、人間である「農夫」の目に、霊界の存在である「修羅」が見えないとしても、それはむしろ当然のことではないでしょうか?‥‥w




ところが:

40けらをまとひおれを見るその農夫
41ほんたうにおれが見えるのか


「けら」は、西日本では“みの”“ばんどり”などと言うかもしれません。わらを編んだ雨具、あるいは雪よけで、賢治の時代には、東北の農民が外出するときには、コートのように「けら」を羽織って出かけたそうです:けら

「けら」をまとった・ふつうの人のなりをしているのに、この「農夫」には、「修羅」である「おれ」が見えるようなのです‥

なぜなら、黙って通り過ぎることなく、知り合いにでも行き逢ったかのように、こちらを振り返って見ているからです。。。☆

☆(注) 多くの研究者・批評家は、「おれ」=作者=人間と考えて、“おれの本当の姿が見えるのか?!見えないだろう”とか、“自分の本当の姿は卑しくて見せられない”とか、この部分を解釈しています。しかし、ギトンは、少なくとも、“自分を見てほしいのに見てもらえない”という嘆き、あるいは“知らんふりをして通り過ごされてしまう悲しみ”のほうを、この部分から強く感じるのです。

つまり、「ほんたうにおれが見えるのか」は、“おまえらにはどうせ解らない”というよな傲慢不遜な気持ちではなくして、“あなたには私が見えるのですね!”という驚き、あるいは、ぬか喜びに終らないかという恐れのまじった気持ちではないかと思うのです★

★(注) まったく誰にも理解されないできた人が、急に理解者に出会うと、喜びより先に、まずこのような恐れ・疑いを抱くことになります。次の「春光呪咀」にも、同様の恐れ・疑いの気持ちが表れていると思います。あるいは、これは東北人に多い性格傾向を、宮澤賢治も持っていたということではないでしょうか?

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