ゆらぐ蜉蝣文字


第1章 春と修羅
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1.9.2


さて、まずざっと読んでみたいと思います。

分からない言葉も出てくると思いますが、とりあえず、“分からないものは分からないまま”──これが大切です。無理に解ろうとして独自解釈をおっかぶせるから、異様に‘巨きな’(笑) 誤解、曲解が起こります──飛ばして行きましょう‥

読みやすいように、あらかじめ、リズムと意味の流れで細かい段落に分けておきました:

. 春と修羅・初版本

01心象のはいいろはがねから
02あけびのつるはくもにからまり
03のばらのやぶや腐植の湿地
04いちめんのいちめんの諂曲模様
05(正午の管楽よりもしげく
06 琥珀のかけらがそそぐとき)

「屈折率」からずっと読んできた・その流れで、この詩がどう読めるのか?…まず印象を見ていきますと:

どうやら、森の中まで雪は融けて、どろどろの湿地が復活しているようです。
「腐植」は、表土の黒い土のことですが、植物の死骸が腐って砂や粘土の粒と混じってできたものです。
「琥珀のかけら…」「四月の気層のひかりの底…」陽ざしも強くなってきているようすで、
この北国にも本格的に春が到来したようです。
なかなか春にならなかったが、いったん堰を切ってしまば、あっというまに圧倒的に春になってしまうのが、この地方の季節感なのでしょうか。
ちなみに、この詩の日付は4月8日です。

解釈の分かれ目になるのは、作者の立ち位置と周りのものの垂直位置関係を、どう見るかが大きいと思います。

1-6行全体を、雲の上の世界と見る人もいます。「はいいろはがね」が空の色だとしたら、たしかにそうなるかもしれません。作者は空の上に立っている、あるいは、空に足をおいて逆さまに、地上に近いほうが頭になってるかもしれません。。

しかし、ギトンは、必ずしもそう考える必要はないと思います。このモディファイされた《心象世界》は、天地の逆転が可能なのです。ちょうどパソコンのお絵かきソフトの“垂直反転”のようにw 空が地面ならば、われわれの立っている地上は雲の上なのです。
したがって、作者はわれわれといっしょに地上に立っていると思ってかまわないはずです。天のほうから見下ろせば(見上げればw)、作者やわれわれのほうが、天に足を置いて逆さまに立っている(ぶらさがっている)ことになるのですから。





ともかく、「はいいろはがね」は、作者の立っている場所です(「心象の」と書いてありますが、だから作者の心、胸とは必ずしも言えません。詳しくは、このブックの『序説』を読んでください。)そこから「あけびのつる」が絡み合いながら、はるか上へ伸びて、先は雲に絡まっています。
‥つるくさを「あけび」にしたのは、ユーモラスですねw:あけび
そして、作者の足元には、棘だらけの「のばらの藪」や、泥炭で真っ黒な湿地があって、そこにも細い灌木や茨(いばら)がからまって、いちめんの「諂曲模様」になっています。
「琥珀のかけら」は、とりあえず太陽の光だと考えていいでしょう:琥珀
「正午の管楽よりもしげく」──オーケストラのような陽の光が、いばらやぬかるみに脚をとられてさまよっている作者の頭の上から注いでいるのです。

07いかりのにがさまた青さ
08四月の氣層のひかりの底を
09唾し はぎしりゆききする
10おれはひとりの修羅なのだ
11(風景はなみだにゆすれ)

春先に「にがい」「青い」と言うと、
まだ熟れていない果物の実をまちがえてかじってしまったような感じですねw

「四月の氣層のひかりの底」は、まえの1-6行目に書いてあったような・陽の光が注ぐ昼間の湿地帯。「あけび」があるから、原野と森林の境目でしょうかね‥

「ゆすれ」は方言で、「揺れて」。

「修羅」は、「おれは」と言ってるんですから作者でしょう。
もっとも、「おれ」=作者=宮澤賢治その人、とストレートに考えなくてもよいかもしれません。作者は、「おれ」を、少し遠くから、つきはなして見ているような感じがあります。

「ひとりの修羅」──これは(ほかの人が論じているのを見たことがありませんが)問題になる箇所だと思います。「ひとり」ってことは、ほかにも修羅がいるのか?‥

ギトンの結論を言いますと、
「ひとりの修羅」とは、「修羅」がおおぜいいる、人間の世界人口ほどではないけれども、とにかく、かなりいる‥、その・おおぜいの「修羅」が、みな、「おれは修羅なのだ」とか言ってうろついている、互いに争ったり、どなり合ったりしている、そのなかの、「おれ」も「ひとりの修羅なのだ」

──そういう意味だと思います。
詳しくはあとで説明します。。

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