ゆらぐ蜉蝣文字


第1章 春と修羅
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1.8.2


からす、正視にたえず、
 また灰光の桐とても
 見つめんとしてぬかくらむなり。
  ※
たましひに沼気つもり
 くろのからす正視にたえず

 やすからん天の黒すぎ
 ほことなりてわれを責む。
  ※
3きりの木ひかり
 赤のひのきはのびたれど
 雪ぐもにつむ
 カルボン酸をいかにせん。
  ※
4かなしみをやめよ
 はやしはさむくして」
(『冬のスケッチ』,17葉)


↑↑第2章にある

「やすからん天の黒すぎ
 ほことなりてわれを責む。」

は、『春と修羅』にも現れている形象で、例えば、作品「春と修羅」には:

「日輪青くかげろへば
  修羅は樹林に交響し
   陥りくらむ天の椀から
   黒い木の群落が延び
     その枝はかなしくしげり」

と書かれています。「黒い木の群落」つまり「天の黒すぎ」は、天頂から逆さまに地上へ向かって伸びている木立ちなのです。
その矛のように尖った「天の黒すぎ」の梢が、真上から作者の頭脳と心を突いて、責めるというのです。

第3章の「雪ぐもにつむ/カルボン酸」は、作品「屈折率」の「縮れた亜鉛の雲」、作品「くらかけの雪」の「酵母のふうの/朧なふぶき」を想起させます★

★(注) 『冬のスケッチ』から対応する語句を拾うと:「酵母のくも」(45葉)、「亜鉛の雪」(22葉)。つまり、『春と修羅』の「亜鉛の雲」「酵母の…ふぶき」とは逆の組み合わせになっているわけで、賢治の《心象》の中で、これらは非常に近い位置にあることが分かります。なお、「雲はたよりないカルボン酸」(『春と修羅』「風景」)も参照。

第4章「かなしみをやめよ」で、抑えられていた感情が、言葉になって迸り出ています。つまり、この紙葉の散策で作者の心をとらえていたのは悲しみなのですが、
それは、「たましひ」の沼の奥底で、ブツブツとメタンガスを噴き出しているような、腐敗した澱りの感情なのです。

それが病気の妹を心配する気持ちとは、まったく別のものであることは、明らかだと思います。
単に重病の妹を心配しているのならば、
作者の気持ちが泥沼のように腐敗したり、「天の黒すぎ」によって倫理的に責められたり‥
といったことはありえないでしょうから。

題名の「恋と病熱」から推し量れば、このとき作者の心を占めていたのは、妹以外の誰かに対する“恋”の感情、──しかも、純真な慕情や、切ない片思いといったようなものではなく、むしろ、“愛の葛藤”を経てなお已みがたい屈折した激情であったと思われます。。。

ところで、
『春と修羅(第1集)』の作品は、タイトルが内容を理解するためのヒントないし説明になっていることが多いと思います。

これまで見てきた詩篇からも言えることは、
賢治の《心象スケッチ》には、いつも具体的な“時と場所”があり、具体的な状況が前提にあるということです。
たとえ現場スケッチのようなものでなくとも☆、作者は特定の場所と状況を想定して作品をまとめていることが判ります。

☆(注) 作品批評の中では、とくに『第1集』収録の諸篇は、現場スケッチとして解釈されていることが多いのです。じっさいには、現場でのスケッチとはかなり違うものであることは、数篇検討した中で、すでに明らかになったと思います。現場でのスケッチメモや印象を、いくども考え直し、また、組み合わせたり改編したりして創り上げたフィクションまたはノンフィクションの作品が、《初版本》として出版された諸篇なのです。

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