ゆらぐ蜉蝣文字


第1章 春と修羅
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1.7.6


さきほどの32葉のあとには、→33葉→34葉→‥と続きますが、34葉には、次のような一節もあります:

「 ※
 ほんとうにおれは泣きたいぞ。
 一体なにを恋してゐるのか。
 黒雲がちぎれて星をかくす
 おれは泣きながら泥みちをふみ。」

異性愛者の方は(批評家の大部分は異性愛者のはずですが)、賢治のこうした気持ちを、“友情”として理解されるようです。それはそれでよいのだと思います。愛情であることを理解しろと言ったって、同性愛の愛情は異性愛の愛情とは違うので、理解は困難だからです。
しかし、その“友情”は、魂の奥底から発するような、エロス、リビドーと区別できないような、深く深く激しいものがあることを理解してほしいと思います‥

「このとき凍りし泥のでこぼこも寂まりて
 街燈たちならぶ菩薩たちと見えたり
  ※
2弓のごとく
 鳥のごとく
 昧爽[まだき]の風の中より
 家に帰り来れり。
  〔余白〕」

(『冬のスケッチ』,15葉)






この紙片も、冒頭が切れています。
しかし、「家に帰り来れり。」のあとが余白になっているのは、ここで『冬のスケッチ(4)』ないし『(5)』‥または、ほかの章‥が終っている可能性が高いです。
佐藤氏は、16葉が、その章の途中で、15葉は終結部──夜明け前の散歩から帰って来たところと解しておられます◇

◇(注) 佐藤勝治『“冬のスケッチ”研究』,増訂版,pp.48-50.

確実な推定とは言いがたいと思いますが、紙片の形態に関する調査結果(『新校本全集』)と何も矛盾はなく、内容的にも問題はありません。

第2章は、賢治はこれにメロディーをつけて、よく歌っていたといいます。リズムを見ても:

3・3
3・3
4・3・4
3・3・4

となっていて、‥適当なワルツの替え歌にしてみるとよく分かりますが、楽しい歌詞になるような明るい作なのだと思います。

佐藤氏は:

「第二章『弓のごとく』『鳥のごとく』に自嘲と共にみずからをあわれむ詩人の悲しみがにじみ出ている。」

としておられますが、とてもそうは思えませんねw
この15葉が16葉からの散策の最後だとすれば、おそらく、思う存分歩き回って、晴れ晴れとした気分になって帰宅したのではないでしょうか。
↑ナイトハイクをしたことのある方には分かるはずです。

「このとき凍りし泥のでこぼこも寂まりて
 街燈たちならぶ菩薩たちと見えたり」

「街燈」は、いったん「街道の」と書いてから、「道の」を消して、「街燈‥」と続けています。
「街道」は、自宅の前の奥羽街道でしょう。夜はほとんど明かりのない当時、まっくらな川沿いや山道◆を歩いて来たあとでは、道を明るく照らしている街燈は、比喩でなく「菩薩」に見えたことと思います。

◆(注) 佐藤氏は、賢治はこのとき、北上川の対岸の胡四王山に登って来たと想像しています。

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