ゆらぐ蜉蝣文字


第1章 春と修羅
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1.7.2


さて、その@提婆達多の戒律ですけれども、↓つぎの《五事の戒律》をシャカに提案して退けられたので、分派を起こしたとされます:

「1 人里離れた森林に住すること。村邑に入れば罪となす。
 2 乞食(托鉢)をして暮らすこと。家人に招待されて家に入れば罪となす。
 3 ボロボロの糞掃衣(ふんぞうえ)を着ていること。俗人の着物を着れば罪となす。
 4 樹下に座して瞑想すべし。屋内に入れば罪となす。
 5 魚肉、乳酪、塩を食さず。食せば罪となす。」

賢治のこの詩との関係では、1,2,4が重要だと思います。
つまり、‥信者に招待されても、家の中に入ってはいけない。いつも外で乞食をして暮らせ。そもそも、村や町の中に入るな。……人里はなれた森林で、どうやって托鉢をするのか知りませんけどねw

つまり、「提婆の甕」は、家の外に一つだけぽつんと置かれていることが重要なのだと思います。家の中に入れてもらえない甕、あるいは、自らの戒律のために家の中に入ろうとはしない甕──それは、町中が寝静まった未明の時刻に、用事があるわけでもないのに、ひとりで戸外をうろうろとさまよい歩いている作者の比喩になっていないでしょうか?

釈迦に異端として退けられたダイバダッタ、あまりに厳しすぎる戒律を主張し自らにも課したために、かえって異端とされ、最後には地獄に落とされたとさえ言われているダイバダッタが、それに重なります。

家族はみな浄土真宗で、作者だけが“おおやけに”日蓮宗なわけですが☆、自力修行よりも他力にすがる浄土真宗と比べ、日蓮宗は、戒律をより重視するかもれません。他宗攻撃を激しくやるくらいですから、そのぶんの緊張が、自派への忠誠となって自分に跳ね返らざるをえないと思うのです。

☆(注) 妹のトシも、この時点ではすでに日蓮宗に改宗していた(『国柱会』に入会していた)と思われますが、家族には秘密にしていました。

しかし、提婆達多にされた「甕」自身は、凍りついたどろんこの街道沿いに、ひとつだけ ぽつんと置かれて、いい迷惑なんでしょうね。その、おちょくったような自嘲も、この詩にユーモアを添えています。そして‥‥ぬき足、さし足、店先に近づいて、「提婆の甕」を盗んで行った者がいるわけです。



. 春と修羅・初版本
05にはかにもその長く黒い脚をやめ
06二つの耳に二つの手をあて
07電線のオルゴールを聽く

↑5行目がこの詩のヤマのようですが、「甕」を盗み出した「ぬすびと」は、「長く黒い脚」の人物なのでしょうか?‥ギトンは、これは長く延びた影ぼうしだと思います。

「にはかにも‥‥やめ」

とあるので、足をとめたとか、立ち止まったということではなくて、「長く黒い脚」が、なくなったのだと思います。

街燈の光でできた影ぼうしならば、歩いている人が動くと、「脚」が短くなったり、街燈が遠くなって影が消えてしまったりしますから、“急に、長い脚をやめた”と言う意味が分かります。

通りの電信柱の影だという説もありますが、電柱や電信柱は道路のへりに沿って立っていますから、やはり道路のヘリにある街燈の光によって、道路を横断するような影はできないと思います。それに、動かない電信柱では、「にはかにも‥‥やめ」が説明できません。

この“長い影”は、さしあたって、作者の脚と考えてよいと思います。人みな寝静まった未明の時刻に、作者以外に出歩いている人間はいない、という前提で読んできたからです。

06二つの耳に二つの手をあて
07電線のオルゴールを聽く

これも、電柱の腕木と碍子だという説明をする人がいます。しかし、電信柱の腕木は何本か?←こちらで調べてみた結果、当時の電柱にしろ、電信柱にしろ、腕木は何本もあって、碍子も10個以上付いているのがふつうでした。「二つの手」、つまり腕木が1本だけ‥とは考えにくいのです。しかも、宮澤家の前の通りは奥羽街道なのですから、送電線も幹線のはずです。腕木が1本だけということは、ありえないでしょう。

なお、賢治の描いた有名な「月夜のでんしんばしら」の絵(↑上のファイル参照)も、腕木は3本、碍子は6個です──もし、こういう電信柱ならば、「六つの耳に六つの手をあて」と言わなければならないはずです!

なので、これもやはり、店先にそっと近づいて「提婆の甕」を盗んできた人物(作者の影ぼうし)が、耳に手を当てて、電線が風になびいて出す唸り声をじっと聞いているのだと、解すべきです。

つまり、書いてある通りにすなおに読むのがいいと思います。
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