ゆらぐ蜉蝣文字


第1章 春と修羅
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【5】 カーバイト倉庫





1.5.1


「カーバイト倉庫」は、「丘の眩惑」と同じ 1922.1.12.の日付です。
「丘の眩惑」は、雪をかぶった午後〜夕刻の丘陵地でしたが、
そこから岩根橋駅付近へ下りて来ています。

時刻は、もう日は落ちて「薄明(はくめい)どき」です。

. 春と修羅・初版本

01まちなみのなつかしい灯とおもつで
02いそいでわたくしは雪と蛇紋岩(サーペンタイン)との
03山峡をでてきましたのに
04これはカーバイト倉庫の軒
05すきとほつてつめたい電燈です
06 (薄明どきのみぞれにぬれたのだから
07  巻烟草に一本火をつけるがいい)



蛇紋岩 蛇紋岩 蛇紋岩
蛇紋岩は、マントル層上部の橄欖(かんらん)岩が、マグマとなって地表へ上昇し、水と反応して変質した岩石です。
地球の体積の大部分を占めているマントルの上部は、橄欖岩でできていますが、地殻変動で地表の近くまで出てくると、水と反応して蛇紋岩になるのです。

蛇紋岩の主要鉱物である蛇紋石(serpentine サーペンタイン)は、濃い緑色をしており、古代から御守りとして用いられてきました。
蛇紋岩は、鉄、マグネシウムや、重金属類を多く含むので、植物の生育を阻害します。
北上山地には蛇紋岩が多いので、木が生えずに草原になっている処が多いのだと言われます。

しかし賢治は、北上山地を「蛇紋岩山地」と呼んで、草原と森がゆるやかに起伏する風光を愛していました。

山道を歩いていて夜になり、足早に麓へ下りてゆくときは、遠くに見える人里の燈火が懐かしくなります。
人家の灯りだと信じて、あそこまで行けば平らな道になる!‥‥と、ひたすらに足を運んで来てみたら、高速道路のトンネルのランプだったり、無人のセメント工場だったり‥なんてことはよくあります。

しかし、誰にも行き遭わない寂しい山道を歩いていると、人工照明はもちろんのこと、無人の廃屋や、置き捨てられて錆びた自動車などの人工物を見いだすだけでも、ほっとするものです。そこが、すぐに人里ではないとしても‥

「カーバイト倉庫」は、岩手軽便鉄道(現在のJR釜石線)岩根橋駅付近の・駅とは猿ヶ石川を隔てた対岸にありました。
「カーバイト」は、正確に言うとカーバイド(carbide)。炭化カルシウム(カルシウム・カーバイド CaC2)の略称です。アセチレンガスや化学薬品、ナイロンなどの原料になるほか、
ハーバー・ボッシュ法☆によるアンモニア合成が一般化する前の賢治の時代には、窒素肥料の原料としても重要でした。

☆(注) ハーバー・ボッシュ法は、気体の水素と窒素を、触媒と高温高圧下で反応させてアンモニアを合成する工業製法で、1913年に実用化。それ以前は、カーバイドを空気中の窒素と反応させ、カルシウム・シアナミドを経てアンモニアを合成していました: CaC2 + N2 → CaCN2 + C [石灰窒素], CaCN2 + 3H2O → CaCO3 + 2NH3 中間体の“石灰窒素”は、耕地に入れれば、徐々に湿気を吸ってアンモニアを発生するので、肥料として使われました。

当時ここには、盛岡電燈(株)の岩根橋水力発電所があり、発電所の余剰電力と北上山地の石灰岩(そしておそらく釜石製鉄所から運ばれたコークス)を利用して、子会社のカーバイト工場が操業していました★
この水力発電所は、戦後、上流の田瀬ダムの建設に伴って廃棄されています。

★(注) カーバイドは、石灰とコークスの混合物を、電気炉で約2000℃に加熱することによって作られます:CaO + 3C → CaC2 + CO
岩根橋水力発電所とカーバイド工場については:渡辺四郎「東北地方における電気事業の展開と工業の発達」リンク(PDFファイル)
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