ゆらぐ蜉蝣文字


第1章 春と修羅
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1.19.2


. 春と修羅・初版本

01かはばたで鳥もゐないし

という最初の行も、同じ意味に解釈できそうです。
鳥は、『春と修羅』では、しばしば作者の心の中を監視する役目を帯びて登場します──例えば、「陽ざしとかれくさ」の「からす」!

したがって、「鳥もいないし」は、監視役がいないので、緊張を解いてデート気分になれるという意味に解釈できます。

04おきなぐさは伴奏をつヾけ

4行目は、《宮澤家本》では、「おきなぐさはつゞけてふるひ」、《菊池本》では、「どのおきなぐさもゆれつゞけ……」に改稿されています。

したがって、「どのおきなぐさも‥」から、オキナグサは1本ではなく、多数であることが分かります。「伴奏」とは、道ばたのたくさんのオキナグサが、風で震えるように、リズミカルに揺れているのを、「われわれ」のために伴奏をしているのだ、と言っているわけです。

そして…

05光のなかの二人の子

燕麦のタネをしょって歩いて行った先に、幻想空間(「光のなか」)が出現し、
作者と生徒たち:「われわれ」は融け合って、幻想的な《二人の少年》として現れます。

ここで、
作者+何人かの生徒が、幻想空間では「二人」になるのか?

それとも、生徒たちの中に、とくに賢治が恋愛対象にしている少年がいたのか?

あるいは、そもそも作者は、実習場へ行く他の生徒たちとは別に、生徒のひとりを呼んで、作者とその生徒とでエンバクの袋を運んでいるのか?

……それは詮索しても分からないことです。
いずれにせよ、
労働する「われわれ」であった心象が、
さいごには「光のなかの二人の子」となって結晶していることに注目したいのです。

さて、
ひろびろとした天空を仰いでいると、学校を出て何年もたっているのに、まだ結婚もしていない・子どももいない身が悲しく思われます。
賢治の時代の地方では、中学校なり高等専門学校を卒業したら、仕事について身を固める(結婚する)のが普通の人生コースだったようです。

小学校の同級生たちも、勤務先の同僚も、みな結婚して子どもがいるのに、ひとりだけ独身でいたら… 
病人か、よほどの変わり者と思われたことでしょう。

じじつ、賢治は、高等農林卒業時に発病した肺結核が潜伏していて病気だったのですが、病気を口実にして独身を続けていたような状態です。
他人からみれば、気ままで‘いいご身分'、内心では、同性愛傾向のために‘結婚'は受け入れがたいということが分かっていたはずです。

そんな境遇の賢治にとって、
周囲の‘監視の目’を逃れて、少年たちと過ごす実習の時間の幸福感は、慣れない農作業のきつさを補ってあまりあるものだったにちがいありません。

05光のなかの二人の子

という最終行からは、「小岩井農場・パート四」の:

「すきとほるものが一列わたくしのあとからくる
 ひかり かすれ またうたふやうに小さな胸を張り
 またほのぼのとかゞやいてわらふ
 みんなすあしのこどもらだ
  〔…〕
 これらはあるひは天の鼓手、緊那羅のこどもら
  〔…〕
 みんなはしつたりうたつたり
 はねあがつたりするがいい」

という一節が想起されますし、

また、同じような楽しい実習の一こまは、散文『太陽マヂック(イーハトーボ農学校の春)』にも描かれています。

これらは、みな、この同じ時期に着想され、書かれたものですが‥
詳しくは、のちほど長詩「小岩井農場」の中で見ていきたいと思います。





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