ゆらぐ蜉蝣文字


第1章 春と修羅
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【20】 かはばた





1.20.1


さて、「おきなぐさ」と同じ日付を持つもう一つのスケッチ「かはばた」(川端)を見ておきましょう:

. 春と修羅・初版本
. 詩ファイル「おきなぐさ」「かはばた」

   かはばた

01かはばたで鳥もゐないし
02(われわれのしよふ燕麥(オート)の種子(たね)は)
03風の中からせきばらひ
04おきなぐさは伴奏をつヾけ
05光のなかの二人の子


このように、たいへん短い作品です。
《印刷用原稿》を見ますと、最初は「労働」という題名であったのが、「かはばた」に改められています。

「おきなぐさ」では、ファンタジックな世界は、遥かな天空に想定されていましたが、
「かはばた」では、地上の世界に、幻想空間が出現します。

そして、作者(と生徒たち)を幻想空間へと導いて行くのは、ここでもやはり、路傍に咲いたオキナグサなのです。

さきほどの「おきなぐさ」では、作者はいつものように城址の野原にいるようでした。おそらく昼休みか、授業の空き時間だったのでしょう。

ここでは、(おそらく午後の)実習時間で、生徒たちを連れて北上川畔の畑へ向かっています。

実習農地に播く燕麦(えんばく、からすむぎ、オート)の種子の入った袋を背負っています。

02(われわれのしよふ燕麥(オート)の種子(たね)は)

↑これは、作者が生徒たちに何か説明しているのでしょうか?‥‥途中で切れているので、よく分かりません。

賢治は、若い男子生徒たちと野辺に出る幸福を満喫しているようすですが、

03風の中からせきばらひ

これは、どういうことでしょうか?
「咳払い」をしたのは、背中にしょったエンバクのタネでしょうか?‥道ばたのオキナグサでしょうか?
「風の中から」と云いますから、どちらでもなさそうです。

類例を探してみると、「オホーツク挽歌」章の「鈴谷平原」に、次のようなのがあります:

「(こんどは風が
 みんなのがやがやしたはなし聲にきこえ
 うしろの遠い山の下からは
 好摩の冬の青ぞらから落ちてきたやうな
 すきとほつた大きなせきばらひがする
 これはサガレンの古くからの誰かだ)」

「好摩」は、盛岡の北、東北本線と花輪線が岐れる好摩駅の周辺。岩手山麓のひろびろとした曠野のまん中です。
その広い冬空から「落ちてきたような」、あるいは、サハリンの「遠い山の下から」響いてくるようなふしぎな「せきばらひ」‥
「サガレンの古くからの誰か」は、人間などではなく、極北の地に住みついた神格‥あるいは、アイヌやオホーツク民族の神話に出て来る妖精のような感じです。。

ここ、花巻の町の川べりにも、そんな名も知られぬ妖精がいてもおかしくありません‥☆

☆(注) 『第2集』から例を出しますと、「祀られざるも神には神の身土があると〔…〕/さう云ったのはいったい誰だ」(「産業組合青年会」#313,1924.10.5.);「(待ておまへはアルモン黒(ブラック)だな)」(〔南のはてが〕#309,1924.10.2.)。なお、農学校の実習地は、北上川に注ぐ瀬川の近くにありました。「川端」の「川」は瀬川でしょう。

しかし、ここでは“妖精の咳払い”は、いわば幸せの引き立て役です。

例えば、恋仲になった同僚どうしが、職場の隅でキスをしているところに、たまたま居合わせた上司は、咳払いをするかもしれません。

賢治は、生徒たちと学校の囲いの外に出ている幸福感に対して、そんな疚しさ──あるいは、咳払いをされることによって意識する幸福感──を感じているのではないでしょうか。

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