ゆらぐ蜉蝣文字
□第1章 春と修羅
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1.17.11
ところで、《和賀断片》の問題の“松並木が混みすぎている”の部分を、もう一度見ますと:
「ここの並木の松の木は
あんまり混み過ぎますよ
あんまり枝がこみあって
せっかくの尾根の雪も
また、そら、あの山肌の銅粉も
なにもかもさっぱり見えないぢゃありませ
んか。すこし間伐したらどうです。
〔…〕
雪がふかいのならば
仕方もありませんけれど
これではあんまり
みちがくらすぎはしませんか。」
いかにも、じっさいに会話をしているようなのです。じっさいの会話があってこそ、それを「習作」で思い出すだけの印象もあると思います。
しかし、会話の内容は、乗り合わせた乗客とか、沿道で行き会った人との会話でしょうか?!それにしては、あまりに気取っているし、“文学的”です。「枝がこみあって/せっかくの」景色が見えないというのも、庶民向きではありませんし、「あの山肌の銅粉」は賢治特有の詩的表現です(じっさいに、銅の粉が山肌についているのが、見えたとは考えられません)。
賢治は、例えば散文『化物丁場』★で、乗り合わせた線路工夫と会話している際には、このようなインテリぶったことは、まったく話していないのです。
★(注) 1922年8月に横黒線に乗車した際の乗客との会話に取材したものと推定されます:菊池忠二「作品『化物丁場』の執筆時について」,in:小沢俊郎・編『賢治地理』,1975,学藝書林,pp.69-75.
ギトンの考えをズバリ言いますと、《和賀断片》の会話の相手は、保阪嘉内だと思います。
保阪ならば、“賢治語”を駆使して“文学的”な感想を言いたいだけ言っても、響き合う相手です。
ただ、保阪が1921年末〜22年早春に岩手県に来たという根拠はありません。21年12月の書簡で、賢治が「春になったらいらっしゃいませんか」と書き送っているだけです。おそらく保阪は来ていないでしょう。当時、保阪は桂川電気興業会社の依頼で山梨県内外の発電所建設予定地の地質調査に従事しており、岩手へ行く余裕はなかったからです◇
◇(注) 『心友 宮沢賢治と保阪嘉内』,p.111.
むしろ、賢治と嘉内が連れ立って《和賀軽便軌道》の“松並木”を見たとすれば、1918年3月だと思います。
この時、保阪は、高農に除籍処分の掲示が出されたという賢治の急報で来盛しましたが、学校当局からは、処分撤回はおろか除籍の理由さえ明らかにされず、保阪はむなしく引き揚げます。
その際、賢治は保阪を花巻の大沢温泉に招待して、悲憤の酒をともに酌み交わし、同宿しているのです(その思い出から、のちに文語詩『対酌』が書かれています:詩ファイル・対酌)。
大沢温泉の翌日に、保阪を送りがてら黒沢尻で下車して仙人方面へいっしょに行ったとすれば、この“松並木”の会話は、よく分かります。《和賀断片》には:
「和賀川のあさぎの波と
天末のしろびかり
緑青の東の丘をわれは見たり
※
(赦したまへ。)」
という部分がありますが、「緑青の東の丘」は(現実には東方の北上山地かもしれませんが)、賢治が、保阪放校の悲しみを詠ったと言われる◆短歌群:
「あはれきみがまなざしのはて
むくつけき
松の林と土耳古玉の天と」
(『歌稿B』710-711b)
「うるはしく
うらめるきみがまなざしの
はてにたゞずむ緑青の森」
(『歌稿B』710-711d)
「むくつけきその緑青の林より
まなこをあげてきみは去りけり」
(『歌稿B』710-711e)
の「緑青の林」に対応します。
◆(注) 菅原千恵子『宮沢賢治の青春』,p.68. 佐藤勝治『“冬のスケッチ”研究』,pp.441-444. なお、「緑青の森」「緑青の林」は、盛岡市上田の高台にあった盛岡高等農林学校を遠くから見た景観ではないでしょうか?
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