ゆらぐ蜉蝣文字


第1章 春と修羅
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1.17.10


さて、1907年に、東北本線黒澤尻駅から仙人鉱山まで、各鉱山からの鉱石積み出しのために《和賀軽便軌道》が敷設され、これは最初は人力で、1911年以後は馬が挽いて動かしていました。
線路は、黒澤尻から秋田県へ向かう《平和街道》の道路の隅に敷設された路面軌道で、仙人峠の少し前からは道路と離れて専用軌道になりました:軌道路線図と概要

この《和賀軽便軌道》は、1921年11月に国鉄・北上線(当時は「横黒線」)が開通したので、廃止されました◇。
横黒線は、軽便軌道(平和街道)と並んで、やや北側に離れて走っていました:画像ファイル・和賀

◇(注) ネットを見ると、軽便軌道の廃止時期については、「大正10[1921]年12月14日」とするサイトと、「大正11[1922]年3月1日」とするサイトがありますが、事実上運行をやめたのが「12月14日」、正式の廃業届出が翌年3月1日だと思います。

《和賀軽便軌道》の人力鉄道時代の写真があったので、↑上の画像ファイルに載せさせていただきました。

軌道と道路の両側に松並木が植えられていますが、密に植えられているためか、松はみな細く伸びてひょろひょろしていますね。
これは、軌道が敷設される以前から江釣子村妻川〜横川目村笠松の間に植えられていたもので、防雪林の役目を果たさせるために、間引きしないで放置していたもののようです◆

◆(注) 小野隆祥『宮沢賢治 冬の青春』,1982,洋々社,pp.210-211.

『冬のスケッチ』《和賀断片》では:

「ここの並木の松の木は
 あんまり混み過ぎますよ
  〔…〕」

と書かれ、「習作」では:

「和賀の混んだ松並木のときだつて
 さうだ」

と書かれています。

ところで、『冬のスケッチ』《和賀断片》の書かれた時期ですが、小野隆祥氏は1919年とし、佐藤勝治氏は1922年4月8日としています。
小野氏は、《軽便軌道》に乗った車内からのスケッチと考え(∴1921年12月廃止より以前)、佐藤氏は《軽便軌道》廃止後に歩いて行ったと考えるために、このような違いが生じているのだと思います。

ギトンが思うに、まず、仙人鉱山の閉山以後であることを考慮すると1920年以後になります。ところが、

「あすこが仙人の鉄山ですか。
 雪がよごれて黄いろなあたり。」

は、溶鉱炉が操業しているようにも見えます。もっとも、閉山・操業停止後でも、残った鉱滓の処理などで煙が出ることはあるのではないでしょうか??

また、『冬のスケッチ』の

「ぢっとつめたく、松のあしのうごくをなが
 め居たれ」

は、松並木の間の狭い道を《軽便軌道》に乗って動いているのでもなく、平和街道を歩いているのでもなく、やや離れたところを移動しながら“松並木”を眺めているように見えないでしょうか?

なお、黒澤尻から和賀仙人までは約20kmで上り坂。徒歩で5〜6時間かかるはずです(馬挽きの《軽便軌道》も、時刻表によると2時間半〜3時間かかっています)。それに“石灰岩探索”の時間まで加えれば、佐藤氏の“徒歩説”は(可能ですが)無理があると思います。

『冬のスケッチ』の賢治は、開通した横黒線の車窓から“松並木”を眺めているように思えるのです‥
したがって、『冬のスケッチ』《和賀断片》の仙人鉱山行きの時期は、1921年12月から22年3月ころまでの間だと思います☆

☆(注) 佐藤氏は1922年4月9日か16日だとしていますが(『“冬のスケッチ”研究』,pp.78-79,369-373.)、4月9日は作品「春と修羅」の翌日、「春光呪咀」の前日で、《和賀断片》をスケッチするような呑気な気分だったかどうか疑問に思います。それに、《和賀断片》に描かれた積雪の様子(佐藤氏の回想によれば、この年は暖冬だった!)からも、仙人鉱山行きは、4月より3月以前のほうがありうると思うのです。



和賀仙人鉱山跡(坑口)
お借りいたしましたm(_ _)m⇒和賀計画

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