ゆらぐ蜉蝣文字


第0章 いんとろ
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0.2.3


実は、1933年(作者没年)以前に、生前の評価史があるのですが、生前には、作者その人は無名であったために、比較的作品そのものに即して読まれたのではないかと思います。ただ、いずれにしろ読まれた作品が少ないですし、中原中也のような例外的な“愛読者”を除いては、あまり深い読み方は、されていなかった(賢治の‘詩壇への窓口’と言ってもよい草野心平などを含めて)と思います。

〔第T期〕と〔第U期〕とでは、“宮沢賢治”の人間像そのものが、180度逆転していることに注意してほしいと思います。

〔第T期〕には、仏教寓話ないし道徳講話的な解釈、あるいはもう少しアーティスト的な高村光太郎流の理想主義的な読み方が主流でした。
この傾向は戦後になってもしばらくは続くのですが、

1950年代以降は、〔第T期〕の“無欲聖人像”を前提とした上で、その禁欲性を批判したり、“社会理論に対する無知”を指摘したりという傾向が一般的になります。

そして、“社会に対して消極的・妥協的”な宮沢賢治像からか、詩作品を心理的・内向的に解釈する傾向が強くなったと思います。

〔第T期〕において、“西欧的近代を超克した聖人”の座に理由も無く祭り上げられていた宮沢賢治は、
〔第U期〕には、“近代人のゆがみ”を一身に背負った阿修羅へと転落するのです。

戦後のそうした傾向の中で、精神病理学者・福島章氏の病歴的分析が、氏の学的意図を超えて援用されたり、社会学者・見田宗介氏の論考がもてはやされたりと、各分野の専門家が“賢治読み”に参加したことも、特質として挙げられると思います。

しかし、いずれにしろ、こうした解釈の盛行は、作品と作家を切り離すどころか、ますます堅固に、かつ複雑にもつれた糸で、繋ぐことになったと思うのです。。

天野退二郎氏らの純文学的理解の提唱も、やはり、こうした専門家流の一つとして位置づけることができると思います。

たとえば、“トシ子の死”という“事件”から、遺作『銀河鉄道の夜』に至る軌跡を軸に据えて、“賢治の彼方の賢治文学”をとらえようとする天沢氏の議論☆は、
福島氏による作家理解(「近親相姦的な相愛」などの)や、恩田逸夫氏らの・作家そのものに引き寄せた心理的・内向的作品理解を、前提にしていると言わざるを得ません。

☆(註) 代表的な論著として、天沢退二郎『宮沢賢治の彼方へ』,1968,思潮社.


   


1990年頃を〔第U期〕の終焉として区切ったのは、1990年代に菅原千恵子氏の『宮沢賢治の青春──“ただ一人の友”保阪嘉内をめぐって』が、出版されていることを重視したからです。

菅原氏の称讃すべき慎重さは、〔第U期〕の福島章氏の失敗にかんがみて、“精神的同性愛者”というようなセンセーショナルな物言いを極力避け、いわば静かに議論を提起したことです★
そのためか、菅原氏の提起した諸点に対して、研究者からは見るべき応答がなく、いまだ波紋を呼んでいるとは言えない憾みがあります。

★(注) 菅原千恵子『宮沢賢治の青春』,角川文庫版,p.152: 「福島章がかつて、賢治と妹トシの関係を『近親相姦的な相愛関係』と書いたことが、その真意をはるかに飛躍した形で読まれ、ともすればセンセーショナルな部分をことさらとり上げて論じられたことも中にはあったので、それは福島氏にとって、不本意であったであろうように、今筆者が述べている賢治と嘉内の愛を、通俗的な意味あいだけで論じられることには慎重でありたいと考えている。」

また、菅原氏自身も、他の論者以上に作家に引き寄せた議論をしているために、天沢氏らの反批判◇も、もっぱらその点に向けられる結果となったことが惜しまれます。

◇(注) 天沢退二郎「ジョバンニは何故オルフェか──「『銀河鉄道の夜』新見」批判」:『賢治研究』,2号,1972.12. これは、菅原千恵子・蒲生芳郎「『銀河鉄道の夜』新見──宮澤賢治の青春の問題」:『文学』40-8,1972.8.に対する反論。

そういうわけで、〔第V期〕は、まだ全体がよく見えません。なお混沌としていて、今は〜〜の時代‥‥というような特徴づけは、現状では難しいと思います。

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