ゆらぐ蜉蝣文字


第0章 いんとろ
8ページ/39ページ


0.2.2


A 宮沢賢治の詩作品に盛られた内容は、いつでもあまりにも具体的で、“その時・その場所”の世界を、めいっぱいに背負っている。しかも、彼の詠い方は非主情的で、作者自身の感情を直接表出することはほとんどなく、むしろ“風景”──という無機質な言い方が、賢治の場合には適当でない。むしろ、山や樹木や岩石をそれぞれ“登場人物”と呼んだほうがよいほどだ──の事物が、それぞれ各様に表す感情を描いている。

  文学作品が、作者の進行中の生から独立して読まれうる条件は、作者も読者も同じ人間で、その感じるものに共通性があるからだとすれば、

  宮沢賢治の場合には、その“人間としての共通性”という基盤が、そもそも希薄なのではないか?‥描かれているのは、作者の感情というより、“その時・その場所”に居合わせた事物の感情なのだから‥

「賢治にとって自然は対象化されたものではない。天地も人間も未分化で、お互いに交感しあっていた、そういう原初の場にはじめから立っている。〔…〕

 〔…〕比喩と考えるにはあまりに飛躍があり、荒唐無稽ですらある。しからば何かといえば、賢治内部に映った『実景』そのものであろう。〔…〕

733黒き指はびこりうごく
 北上の
 夜の大ぞらをわたる風はも。

 これら傍線部にしても、読者に修辞という印象を与えることはない。表現の直截性がそういう受けとめ方をはじめから拒否しているのであって、読者の方でも作者と共に見聞きすることなしには作品に近づくことができない。」

590この度は
 薄明穹につらなりて
 高倉山の黒きたかぶり。

「まだ薄暗い空に黒々とそびえている山、〔…〕黒くたかぶって見えるというのでなく、高倉山そのものが黒くたかぶっている
〔尊大に奢り高ぶっている──ギトン注〕というのだ。つまり感情は自分を離れて、山自体に在るのであって、読者が何かはぐらかされたように思うなら、その原因はここにある。」

★(注) 佐藤通雅『宮沢賢治の文学世界』,1979,泰流社,pp.34,36-37.原文の傍点文字を太字で示した。引用の短歌は『歌稿B』から。

B 上の2点と比べると、賢治にとっても賢治作品にとっても非本質的な事情かもしれませんが、やはり、これまでの宮沢賢治の“読まれ方”が、現在でも、どうしても尾を引いている──ということがあると思うのです。

「賢治の理解史といってもいいし、もっと大きく日本の文学の理解史といってもいいが、そこに作家という人間の地上性が混入しがちだったことはよく知るところだ。つまり作家の実人生が下敷にあって、作品が読まれるという行為が。賢治の場合も例外ではない。むしろ典型的にそれがあって、一人物の〈伝説〉が作品に混入してきた面がある。やがて天沢退二郎らの出現によって、〈伝説〉も地上性も排除されたうえで作品そのものを読むことがはじめられた。私自身、文学は何をおいても作品であり、それ以外は傍註でしかないと考えてきた」


◇(注) 佐藤通雅『宮沢賢治から〈宮沢賢治〉へ』,1993,学藝書林,pp.34,36-37.

しかし、「作品そのものを読む」とは言っても、とくに“多くの傍註を必要とする”詩作品の場合には、どうしても、それまで長年にわたって読まれてきた“読み方”を意識無意識に前提せざるを得なかったのではないでしょうか?‥天沢退二郎氏にしても、“作家の実人生の〈伝説〉を混入させて”読まれてきた時代の解釈を、多く引き継いでいるように思うのです。

   ◆◇◆宮沢賢治の読まれ方──3つの時代◇◆◇

そこで、宮沢賢治の“読まれ方”の歴史を、ごくおおざっぱに時代区分してみますと──ギトンの独断と偏見ですが──次のようになると思います:

〔第T期〕1933年〜1950年頃 伝説的“聖人崇拝”の時代

〔第U期〕1950年頃〜1990年頃 “悩める修羅”の時代

〔第V期〕1990年頃〜 ???の時代

.
次へ
前へ  

[戻る]
[TOPへ]

[しおり]






カスタマイズ