ゆらぐ蜉蝣文字
□第0章 いんとろ
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0.1.4
つまり賢治の考えによれば、この世界は4次元で、空間の長さと時間との間に本質的な区別はないのに、われわれは、時間を特別のものと感じて、時間軸のひとつの向きを「過去」と名づけるのです。
もちろん、《心象スケッチ》も、この世界の現象である以上、《人》や動物や風景と同じように明滅を繰り返しています。たとえ字面は変らなくとも、その意味するところは常に変化してやみません。
しかし、書かれた《心象スケッチ》自体は、「紙と鉱質インク」(←それも一瞬一瞬明滅しています。)を「つらね」ることによって、「22ヶ月前」の方角から、ともかくも「保ちつゞけられ」て、ここまでやって来たのです。
《心象スケッチ》は、
「すべてわたくしと明滅し
みんなが同時にかんずるもの」
つまり《私》のみならず他の《人》や動物や自然物が、「こういうことがあった」と感じるような・この世界の現象を、そのままスケッチしたものです。
感じる主体は、作者の《私》個人にとどまらない。他の《人》や、自然物をも主体と認めます。
そして《私》は、それらと「明滅」交感しながら、その場に居合わせた「みんな[自然物を含む]が同時にかんずるもの」を、スケッチするのです。
石や木や山といった自然物とも交感しますから、人々の常識的な見方からは懸け離れたファンタジーのようになることもあります
しかし、それは作者個人のファンタジーではないと主張するのです。
そうやって記録されたスケッチが、言葉として書かれることによって保存され、「ここまで」──「序詩」の書かれた1924年1月20日の時点まで、運ばれて来た──ということです。
. 春と修羅・初版本「序詩」
「これらについて人や修羅や銀河や海胆は
〔…〕
それぞれ新鮮な本体論もかんがへませうが
それらも畢竟こゝろのひとつの風物です
ただたしかに記録されたこれらの景色は
記録されたそのとほりのこの景色で
それが虚無ならば虚無自身がこのとほりで
ある程度まではみんなに共通いたします
(すべてがわたくしの中のみんなであるやうに
みんなのおのおののなかのすべてですから)」
《心象スケッチ》は、現象の単なる記録なのですが、
一般の人々は、現象をありのままに見るということをしないで、
現象に対して、
偉い学者や宗教家の説を引用して、さまざまな解釈を述べたり、分析を加えたりします。
科学の理論、あるいは宗教の教義によって。
それどころか、人以外の「海胆(うに)」や「銀河」もまた、それぞれの見方や世界観を持っています!!
しかし賢治は、そうした様々な世界観の色眼鏡を通す前の、“なまの現象”の記録(=心象スケッチ)こそが大切だと言うのです:
いかに偉大な理論によって世界が解釈されようとも、
「記録されたこれらの景色は/記録されたそのとほりのこの景色で/それが虚無ならば虚無自身がこのとほり」なのです。
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