ゆらぐ蜉蝣文字


第0章 いんとろ
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0.1.3


賢治の「序詩」では、こうした思想に基づいて、
《私》という現象は、一貫した唯一無二の個人ではなく、「あらゆる透明な幽霊の複合体」――つまり、一瞬ごとに他の魂と入れ替っているような、危うい存在なのだと言っているのです。

この世界では、《私》も他の《人》も、人以外の《風景》に見えるような山や鳥や天体も、すべてが「せはしくせはしく明滅」して、常に一瞬ごとに消滅してはまた生起する運動を続けています。
しかも、
《私》と他の《人》たち、また他のさまざまな存在との間には、常に密接な交感があって、それゆえに、「因果交流電燈の/ひとつの青い照明」なのです。

しかし、そのようにして、「電燈」自体は一瞬一瞬の消滅生起を繰り返していても、

「電燈」の放つ光は「いかにもたしかにともりつづけ」ているのです☆。それは、《人》の死後においても、その《人》の光が灯りつづけることを意味します。

「ひかりはたもち、その電燈は失はれ」

とは、そういうことを言っているのだと思います。

☆(注) 交流電源は、1秒間に50回ないし60回、電流の向きが逆になりますから、そのたびに点滅しています。白熱電灯ですと余熱があるので光が点滅まではしないのですが、蛍光灯ですと実際に毎秒50ないし60回点滅しています。しかし、われわれの目には、同じ光量の光が灯り続けているように見えます。賢治は、このような交流電源と見かけの明かりとの関係を、「因果交流電燈」という言葉で表現して、仏教的な生々明滅する生命のアナロジーとしたのでしょう。

前回引用の部分は、《私》という現象について述べていましたが、
↓これから引用する部分は、その私の《心象スケッチ》について述べています:

. 春と修羅・初版本「序詩」

「これらは二十二箇月の
 過去とかんずる方角から
 紙と鉱質インクをつらね
 (すべてわたくしと明滅し
 みんなが同時にかんずるもの)
 ここまでたもちつゞけられた
 かげとひかりのひとくさりづつ
 そのとほりの心象スケッチです」

「二十二箇月」といえば、
この「序詩」の最後に記された日付は、「大正十三年[1924年]一月廿日」‥
ということは、22ヶ月前、つまり1922年3月頃に「心象スケッチ」が開始されたことが分かります★

★(注) お気づきの方もいると思いますが、《初版本》の劈頭作「屈折率」の日付は1922年1月6日です。1922.1.6.〜1924.1.20.なら「二十二箇月」ではなく「二十四箇月半」ではないか!…これはたしかに矛盾なのです。この問題は、のちほど【7】で検討します。

その「22ヶ月前」という「過去とかんずる方角から」、心象スケッチが「ここまでたもちつゞけられ」てきたというのは…





「序詩」の後ろのほうに「第四次延長」◇という言葉が出てきますが、
賢治は相対性理論に基づいて(?!)、この世界を四次元(空間3次元+時間)と考えているのです。

◇(注) 「延長」は哲学・数学用語で、長さのことです。ところで、時間を第4の「延長」とみなして、この世界を“四次元”だと主張するのは、SF物語にはよくあるフィクションですが、アインシュタインがそう言っていたとは思えませんし、哲学的にもありえないことです。3次元空間の「延長」は、簡単に言えば、タテ・ヨコ・タカサですが、最初のタテをどんな方向に設定しても、それと垂直な2つの方向が存在するのが、私たちの空間の特徴です。タテ、ヨコ、タカサの間には、数学的にはいかなる違いもありません。3つの方向はまったく同等なのです。しかし、私たちの世界の「時間」というものは、タテ、ヨコ、タカサと違って、どんな方向にでも設定できるわけではありません。むしろ、いつも同じ方向でしか存在しない。また、タテ、ヨコ、タカサと同等のものとはとうてい言えないでしょう。そして、私たちは、いつも時間の特定の向きに(未来に)しか動くことができません。動く速さも自由ではない。宮沢賢治が「第四次延長」という言葉で、時間を指しているのはまちがえありませんが、それが「延長」のひとつだというのは、科学的には純然たる誤解でしかないのです(したがって、「四次元」という語をうやうやしく掲げた自称“科学者”の賢治批評には、ギトンはいつも眉唾つけざるをえません)

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