ゆらぐ蜉蝣文字


第0章 いんとろ
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0.8.8


そこで、研究者は推測をするほかはないのですが☆
菅原千恵子氏は、この日に二人は会い、予想外の激しい宗教争論を交して決裂したと推定しています。

☆(注) 二人のあいだに“訣別”という事件があったという推定は、『友への手紙』の共著者である小沢俊郎氏によって主張され、恩田逸夫氏ら賢治研究の重鎮によって支持され通説化しました。しかし、実証的疑問も多く、『新校本全集』の書簡の巻は、“訣別”説とは異なる方針で編集されています。ギトンも、“訣別”説には疑問があります。1918年以後の二人のあいだでは、ほとんど絶交を告げ合っては、まもなく“復縁”するという経過が、むしろ常態だったように思えるからです。ちなみに、宮澤賢治の遺した作品草稿の中に、「われはダルケを名乗れるものと/つめたく最后のわかれを交はし」で始まる「ダルゲ」草稿群があり、菅原千恵子氏は、これを、1921年7月の保阪との会見・訣別を描いたものとして、上記の決裂説を述べているのですが、「ダルゲ」を保阪と見なすこと自体、研究者の間で一致を見ていません。

  ◇◆◇ 切れない絆 ◆◇◆

1921年8月以後、二人の間の文通は前ほど頻繁でなくなり、二人はそれぞれの人生をたどって行くことになります。

しかし、現存している書簡は、二人の間で交されたすべてではなく、とくに、書簡が全く残っていない1922-24年の期間★は、どんな文通があったのか分かりません。

★(注) 保阪嘉内は、1923年8月末に、21年までの賢治書簡を整理してスクラップブックに貼り付け、保管していました。これが、1968年に公刊された『友への手紙』の主要部分です。22-24年の書簡は、後日整理するつもりでいて散逸してしまったのかもしれません。

この解読本の第1章以下で、折りに触れて述べることになりますが、この1922-24年の期間にも嘉内との文通があった形跡は、『春と修羅』の諸所に見出すことができるのです。

1924年4月発行の『春と修羅』《初版本》を、賢治は、遅くとも10月までに嘉内に贈っています(韮山市の資料館に原本があります)。

賢治は、故郷花巻(まだ、普通の中学校もありませんでした)に農学校を作る地元の動きに協力して、その教師となりますが、一段落した1926年同級生に職を譲って退き、自耕の傍ら《羅須地人協会》を立ち上げて、農村文化運動を志します。

農学校の卒業生たちからは歓迎されたこの協会も、周辺一般農民の無理解や、協会員の一部が共産主義者の疑いで逮捕されたこと、また賢治自身が病いに倒れたため、1928年までには挫折します。

その後、土壌改良のための石灰岩末を製造する《東北砕石工場》の技師となって半年間営業活動に従事しますが、やはり肺疾のために続けることができず、

1933年、河本義行◇が溺れた生徒を助けようとして溺死した2ヶ月後、宮澤賢治は、肺結核で永眠しました。

◇(注) 鳥取県立倉吉農学校の教師をしていました。この経緯から、『銀河鉄道の夜』の“カムパネルラの水死”は、河本がモデルだとする説もあります。

他方、保阪嘉内は、発電所の地質調査員、新聞記者を経て、1926年以後は、故郷での営農の傍ら、青年訓練所で教え、日本青年協会に所属して社会教育に従事します。

その中で、1928年(まだ無名だった)「農村芸術家」宮澤賢治を紹介する講義もしています(『心友 宮沢賢治と保阪嘉内』,山梨ふるさと文庫,p.128)。

1933年に賢治が病没した後、
日本青年協会が、折からの“国威発揚”の方向へ傾斜して行く中で、
保阪は、翌34年、協会を辞職し、醤油製造、砂金精錬などの農村副業の開発研究を始めます。

しかし、実用化に至る前に1936年、病に倒れ、37年2月、賢治を追うようにして胃癌で亡くなりました(『心友 宮沢賢治と保阪嘉内』,pp.138-145)。


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