ゆらぐ蜉蝣文字


第0章 いんとろ
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0.8.7


むしろ、1921年前半の文通で目立つのは、嘉内が、自耕営農に反対する父との確執にいたたまれなくなって、東京にいる賢治の三畳間に転がり込もうとし(^^)、賢治が、嘉内の無計画をたしなめる(自分は棚に上げてw)一幕があったことです:

「〔…〕但しお父様や弟様を捨てゝ着のみ着の侭こちらにおいでになる事はどうしてもいけません。〔…〕お父様のお許しを受けてからお出でになってはいかゞですか。私如きものの口から申しあげるのは本当に恐れ入ります。お許しください。〔…〕
 今月の十六日は大聖人御誕生七百年
〔日蓮は1222年2月16日(旧暦)誕生──ギトン注〕の大切な大切な日です。それ迠に一寸お出でになれませんか。汽車賃は私が半分出します。失礼ご免下さい。ごはんは私の所では駄目ですがお出でになる丈なら三畳の汚い処ですが何十日でも宜しうございます。」
(保阪嘉内宛て、1921.2.上旬、書簡番号187)





“親の許しを得ないで着の身着のままで来るのはダメ”などと自分を棚に上げて言いながら、最後のほうでは、「三畳の汚い処ですが何十日でも宜しうございます」などと‥転がり込んで来てほしいと言わんばかりです★

★(注) 三畳一間に二人で何十日も居られるのか?‥と思うかもしれませんが、“男同士の愛と抱擁”があれば、たやすいことです。賢治は本気で書いていると、ギトンは思います。

しかし、日蓮宗で頭がいっぱいになっているのも現れていて、省略した部分では、まず父上に法華経を勧めて改宗を促せ、どうしても改宗に応じなかったときは、出奔しても許されるなどと言っています(汗)。
“汽車賃半分持ち”は、とにかく最後は家に帰ってもらう、と念を押しているのです。

ところが、保阪は、この手紙を紙背まで読む気持ちの余裕は、なかったのかもしれません。前半の日蓮宗一辺倒の部分を読んで、“同棲”を断られたと思ったのか、5月初め、自暴自棄的な葉書を賢治に送ったようで、賢治からは:

「全体どうなされたのです。ひどくやけくそではありませんか。も少し詳しいお便りを下さい。」

(保阪嘉内宛て、1921.5.4.、書簡番号192)

と問い合わせています。

結局、保阪は、見習士官の訓練に応召することによって上京することになり、
二人は7月18日に東京で会う約束をしたようです。しかし‥

「七月十八日 晴
    宮沢賢治
      面会来」

↑嘉内の日記には、ページいっぱいに、こう書かれ、全体が斜線で消されています(『宮沢賢治の青春』,p.107)◇

◇(注) この記載と斜線は、それぞれ後日に書き込まれたもので、“決裂”の証拠にはならないとする説もあります。

いったい、この日の面会は、あったのか中止されたのか?‥
賢治の手紙は、この日を境に大きく変り、長い沈黙の後で、10月には、折り目正しい他人行儀の手紙が送られています。
賢治自身、9月には、妹の急病を聞いて東京を引き払い、帰郷しているのです。

賢治と嘉内の間に何があったのか?‥嘉内の日記も、賢治の手紙も、その点については、じっと沈黙を守るかのようです。。

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