ゆらぐ蜉蝣文字


第0章 いんとろ
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0.8.6


1920年12月、宮澤は、当時は日蓮宗の寺さえなかった花巻で、単身ウチワ太鼓を叩いて「なんみょーほーれんげーきょー」と大声で唱えつつ練り歩く“寒行”を決行し、

翌1921年1月には突然出奔上京し、孔版印刷のアルバイトをしながら、三畳ひと間の独居生活を開始します。

賢治の上京は、《国柱会》に身を寄せて、“下足番でも何でもして”布教に献身することが目的でしたが、訪ねた国柱会館では、「家出人は多いのだ」と言われて相手にされず(汗)、田中智学への面会は一度も許されませんでした★

★(注) 後世の賢治研究の中では、国柱会理事・高知尾智耀に、法華文学の創作を勧められて童話制作に没頭したとされています。たしかに、賢治自身が家族・知人にそう説明しているのですが、もう一方の高知尾智耀の証言(賢治が没後に有名になった後で寄稿を求められて)を見ますと、面会したことは認めているのですが、賢治に対して、当時誰にでも説いていたと思われるような一般的なことしか言っていないのですね。しかも、高知尾は、有名になった亡・宮澤賢治にあやかって教派の宣伝をする意図で書いているのは、まちがえないです。その点を割り引いて考えれば、宮澤賢治という人間に会ったかどうかの記憶さえ怪しいと、ギトンは考えます。そんな「家出人」は当時非常に多かったのですから。。。 また、賢治が“従事した”と称していた布教活動についても、高知尾の話は、昼休みのビラ配りに参加していたようだとか、夜の講演会に人を連れてきたかもしれないとか‥つまり(もし、あれば、目の前で見ていたはずなのに、見た記憶がない!)裏づけとはなりえない曖昧な話だけなのです。もちろん、田中智学の“下足番”をしたなどという事実は、全く確認できません(笑)

じつは、この《国柱会》に先に注目して賢治に紹介したのは、保阪なのです(『宮沢賢治の青春』,pp.91-92)。賢治の入会と上京は、自身の宗教的信念よりも、保阪との関係を軸にした行動なのではないか?‥保阪の向こうに先回りして、保阪の“帰正”を促そう、という迂回戦術のように、ギトンには感じられます。

他方、保阪のほうは、

「神はおのれのうちにある」

と、当時の日記に書いています(『宮沢賢治の青春』,p.94)。

筆禍事件になった《アザリア》掲載の「社会と自分」にも見られるように、保阪は、トルストイ、あるいはドストエフスキー的なキリスト教的無神論に近かったのではないかと思います。神仏を崇めるよりも、自分を神として理想に向かって行きたいのです。

しかし、保阪は、

「東京の友を思えば風もなき冬日のなかに水仙の花」

という歌も当時詠んでいます。“心友”宮澤を思う気持ちは強くあって、‥したがって、その限りで、法華経の研究もしてみたいと考えていたのです。

しかし、賢治が東京に滞在した1921年には、宗教問題以上に大きな問題が、ふたりのあいだにはあったように思われます。

法華経への勧誘に関しては、1918年以来、賢治があれほど激しく説き伏せようとしたにもかかわらず、嘉内は応じませんでしたし、すでに賢治とは別の生きる道を歩んでいましたから、もはや無理に勧めても関係を悪くするだけだということは、賢治にもわかってきたのではないかとギトンは思います☆

☆(注) 賢治と嘉内は、1920年はじめ頃に一度会っているようです。その際に、宗教に関して激しく論争したために、しばらく訣別状態になった(同年3月に嘉内が盛岡の同窓生らを訪問した際、賢治には会った形跡がないなど)と推定する説があります(書簡「あなたはむかし‥」の位置)。こうした衝突を経て、二人は、一心同体的な“臍の緒”を切った、新しい関係を模索し始めたかもしれません。





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