ゆらぐ蜉蝣文字


第0章 いんとろ
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0.8.5


  ◇◆◇ 波乱から“訣別”まで ◆◇◆

1918年6月母を亡くした保阪は、受験・進学を断念し、郷土での営農を目指して準備を開始します。ただ、農村入りする前には兵役を終えなければなりません。当時の兵役は、志願兵☆の場合でも、断続的に入営・除隊を繰り返して2年間以上かかります。

苦渋に満ちた決意でしたが、ともかく保阪は新しい道に踏み出しました。学校に残っていた同級生の河本は、保阪に感激と激励の手紙を送っているほどです。

☆(注) 兵役にあたって、国に献金することによって入営期間を短縮し、下士官への昇進を保証される制度。資産のある家は、この制度を利用するのが通例でした。

しかし、他方で、賢治は、父に逆らって敢えて受けた徴兵検査は不合格であり、研究生兼助手としての勤務もうまくいかないようでした。7月には肋膜炎の診断を受けたため、助手を辞して花巻の実家に帰休しています。
そして、実家住まいとなったことから、賢治の職業問題と宗教問題をめぐる父子の争論は、日増しに激しさを加えていきました。

この頃の賢治の嘉内宛て書簡を見ると、あたかも相手よりも自分のほうが人生の敗残者であるかのような筆致と、ひじょうに観念的な法華経の勧奨が目立ちます。まるで、保阪の窮地に目を覆いながら、おまえは法華経に帰依すれば救われるんだと‥ここぞとばかり押し付けているように見えるのです。そして、保阪の帰農決意に対しては、行間に賢治の羨望と悪意が感じられるのは、ギトンの偏見でしょうか‥

恋人という存在は、いちばん近しいだけに、良い面も悪い面も、容易に現れるのだと思います。

そして、1919-20年になると、賢治の手紙は、

「私は実はならずものごろつきさぎし、ねぢけもの、うそつき、かたりの隊長、〔…〕」

で始まるような激しい自己否定をぶつけた上で、“自分を見捨てないでくれ!”と哀願する‥といった支離滅裂な長文が続くようになります。
そうした感情の起伏を、

「ほとんど狂人にもなりさうなこの発作」

と呼んでみせたりもします。
その一方で、

「来春は間違なくそちらへ出ます。
 〔…〕まづい暮らし様をするかもしれませんが 前の通りつき合つて下さい。今度は東京ではあなたの外には往来はしたくないと思ひます。真剣に勉強に出るのだから。」

などと、その場限りの上京計画を打ち明けたりもします。もちろん、この上京は実現していません。
東京で入営中の保阪に対して、

「兵営には外から考へられない様な辛いことも多いでせう」

と同情して書き送っても、保阪から、予想外に快活な返事が返って来ると、

「兵役ももう少しですな。〔…〕軍人になってはいかゞですか。いやうそだ、うそだ。とにかくしつかりお願ひしますよ。」

と、皮肉混じりに返さざるをえません(『宮沢賢治の青春』,角川文庫版,pp.85-86)





1920年11月末に保阪が除隊して東京を離れるやいなや、賢治は、東京に本部のある“日蓮主義”国粋団体《国柱会》に正式入会します。

「〔…〕最早私の身命は
 日蓮上人の御物です。従って今や私は
 田中智学先生
〔国柱会の主宰者──ギトン注〕のご命令のなかに丈あるのです〔…〕
 田中先生に絶対に服従致します。」

「至心に合掌してわが友保阪嘉内の
 帰正
〔日蓮宗に入信すること──ギトン注〕を祈り奉る」

保阪に、このように書き送り、そのあと3ヶ月ほどの間、保阪の入信を熱心に勧めますが、高農を卒業した頃のような、相手の人格さえ無視した激しさはありません。むしろ、距離を保った落ち着きと敬意が感じられます。

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