ゆらぐ蜉蝣文字


第0章 いんとろ
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0.8.2


「けれど賢治はこの恋をひた隠しに隠した。そうなのだ。賢治は自分の恋を決して人に語るわけにはゆかなかったのだ。なぜならその恋心こそ、〔…〕ただ一人の友保阪嘉内へ寄せたものだったからだ。

  おれのかなしさはどこから来るのだ

と、思わず独白してしまった恋の詩は、賢治自身も気づかなかった心のもだえとして始まりやがて彼自身、それが恋愛感情であると認めたときから賢治の苦悩が始まったのだ。
  〔…〕
 別れの後に押し寄せてきた悲しみの感情、恋のような切なさ、そのおもいを賢治はもてあます。」

(『宮沢賢治の青春』,p.144)

「賢治が嘉内に対して抱いた『恋』を通俗的なホモセクシュアルと解されてしまうのは正しくない。〔…〕恋の相手を異性に限定しない自由さや、魂が求め、引きつけあうものが『恋』なのであって、賢治の『恋』は嘉内という人間に向けられた、魂の渇きだったことを強調しておかねばならないだろう。〔…〕今筆者が述べている嘉内と賢治の愛を、通俗的な意味あいだけで論じられることには慎重でありたいと考えている。」
(p.152)

菅原千恵子氏によれば、賢治が自費出版した『心象スケッチ 春と修羅』は、嘉内との別離という“事件”、そして失われた“ただ一人の友”嘉内への恋情のただ中から産み出されたものであり、
嘉内を抜きにしては、決して語れないのです:

「隠され抑えこまれた恋情が行間のあちこちから噴出している〔…〕それが一体何だったのか。どうして賢治は内面をもっとストレートに詠めなかったのか、多くの読者はその前に立ち止まらざるを得なかったはずだ。しかし、〔…〕嘉内との別離が『春と修羅』成立の重要な役割を果たしているものとして眺めてみると、難解とされている『春と修羅』がにわかに読み易くなるとも言える。」
(p.155)

「その通り、賢治はある特定の誰かに見てもらうためにこの詩集を出したのだ。そしてこのある特定の誰かだけが一読すれば全てを理解できる人であった。その誰かこそ賢治のただ一人の友保阪嘉内だったのだ。」
(p.160)

したがって、『春と修羅』を読んでゆくに先立って、賢治と嘉内との出会いから“別れ”までの一部始終は、たとえ簡単にでも、ひととおり辿っておく必要があります。

また、第1章以降の“解読”の中でも、賢治の保阪嘉内に対する感情や、
“訣別”のあともなお続いていた手紙などの交流の影響を、折りに触れて考えていかなければなりません。

そして、そのたびに賢治と嘉内の関係について説明することはできないので、ここでまず、ひととおりのことを、まとめて書いておきたいと思います。

  ◇◆◇ 出会い ◆◇◆

宮澤賢治が2年次生として在学していた盛岡高等農林学校へ、賢治と同年齢の保阪嘉内が入学してきたのは、1916年、二人が20歳の年でした:盛岡高等農林、自啓寮 ⇒盛岡:賢治・嘉内ゆかりのキリスト教会

保阪は、山梨県北巨摩郡駒井村の出身で、小地主の長男でしたが、トルストイの理想主義に打たれ、故郷の農村を改革する希望に燃えて、盛岡高農に進学してきたのでした☆

☆(注) 当時、高等農林学校は、全国に鹿児島、盛岡の2校だけでした。なお、大学は全国5校の帝国大学しかありませんでした。

そして、この点は、近くに高等専門学校がほかになく、遠方への遊学は父に許可されないために、“やむなく”この学校に入った賢治などとは、大いに異なっていたのです。

学生寮で、たまたま賢治が室長の部屋に入った嘉内は、賢治以下の室員を配役にして自作の劇を上演し、入学当初から頭角を現していました。

保阪の自作劇は、『人間のもだえ』──↓次は、そのサワリ部分のセリフです:

全能の神、恵みの神、全智の神「馬鹿、百姓だ。人間はみんな百姓だ。百姓は人間だ。百姓しろ。百姓しろ。百姓は自然だ。」

三神「人間よ早く急げ永遠の国へ。この燈火は汝らを照らし、この望遠鏡は汝らを導き、この恵は汝らを幸する。行け早く、百姓の国へ。百姓の国へ」

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