ゆらぐ蜉蝣文字


第0章 いんとろ
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0.1.2


学校を出た後の賢治は、複雑に縺れ縺れた迂回路をたどりながら、“宗教”からは、ますます離れて行こうとしました。

まず、法華宗(日蓮宗)への改宗☆を主張して父と激しい衝突を繰り返しました。
その時期の賢治の心の中は、宗教、なかんずく《法華経》一辺倒だったと言ってよいと思います。

☆(注) 宮澤賢治個人が日蓮宗に改宗したのは、1920年11月(高農卒業の2年半後)に《国柱会》に入会した時だと思います。それまでは、もっぱら父を説き伏せて一家で改宗しようと企てていたようです。当時まだ日蓮宗の寺さえ無かった花巻で、それは、客観的には荒唐無稽な主張でした。

しかし、その一方で、同性愛的親友・保阪嘉内との葛藤──宮澤は法華宗へ“折伏”しようとし、保阪はこれを屈強に跳ね返す──のすえに、賢治は、1921年後半からは、まるで憑きものが落ちたように、宗教一辺倒の世界から身をもぎ離そうと、もがきつづけることになります。

自ら身につけた科学知識と、保阪ら《アザリア》★の仲間に啓発された文学的素養が、宗教家となる方向にストップをかけたのかもしれません。

★(注) 盛岡高等農林学校在学中に、宮澤賢治、保阪嘉内らが発行した文芸同人誌。他の重要メンバーとして、河本義行(のち自由律歌人となる。号は緑石)、小菅健吉。

科学的な真理や知識、また芸術的感覚を無視して、宗教に“帰依”してしまうことはできないのでした。

こうして、
地質学をはじめとする科学用語がふんだんに散りばめられ、
しかも、仏教思想ないし東洋哲学を色濃く匂わせながら、

これらのどちらによっても完全な理解はおぼつかない特異な詩編『春と修羅』が誕生したのです。

「序詩」には、そうした事情が、深く影を落としています。

. 春と修羅・初版本「序詩」

「わたくしといふ現象は
   〔…〕
 (あらゆる透明な幽霊の複合体)
 風景やみんなといっしょに
 せはしくせはしく明滅しながら
 いかにもたしかにともりつづける
 因果交流電燈の
 ひとつの青い照明です
 (ひかりはたもち、その電燈は失はれ)」

西洋の思想では、個人の“自我”というものが極めて重要です。

哲学はもちろんのこと、

個人の人権と民主主義に至上の価値を置く法学、政治学、
社会の経済現象を合理的個人の活動に分解して考える経済学など、
文科系の学問すべてが“個人”に基づいている…

ちょうど、すべての自然科学が、最終的には原子、素粒子の運動によってあらゆる現象を説明しようとするのに似ています。

しかし、東洋、とくに仏教をはじめとするインドの思想は、
逆に、可能な限り“個人”“自我”を消し去ろうとするのです◇

◇(注) 手軽で本格的な入門書として『ミリンダ王の問い』(平凡社、東洋文庫)をお薦めします:『ミリンダ王の問い』 『ミリンダ王の問い』(携帯)

私たちは、

個人というものは、生まれてから死ぬまで同じ《人》だと考えますし、

その考え方を死後まで延長して、“魂の不滅”などということを考えたりします。

しかし、インドの思想では(以下、たいへん乱暴な説明で恐縮です):

きのうのニュースに出ていた小沢一郎氏と、きょう記者会見していた小沢一郎氏が同一の《人》だという保証はないと考えます。

たとえ肉体は同じだとしても、心も《同じ人》だという証明は不可能です。

それどころか、常に一瞬一瞬、別の人と入れ替っているかもしれない。本人が「俺は昨日からずっと俺だ」と思っているのは、単に、周りの他の《人》と記憶が一致するからにすぎない。その周りの《人》たちだって、同一人が持続している保証はないのですから。

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