ゆらぐ蜉蝣文字


第0章 いんとろ
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0.7.3


じつは、「恋と病熱」には、前身となる草稿がありまして、
『冬のスケッチ』草稿群に、次のような詩句が、‥断片的ですが、見られます:

からす、正視にたえず、
 また灰光の桐とても
 見つめんとしてぬかくらむなり。」
(『冬のスケッチ』,17葉)

「あまりにも
 こゝろいたみたれば
 いもうとよ
 やなぎの花も
 けふはとらぬぞ。

(『冬のスケッチ』,37葉)

《初版本》に収録された「恋と病熱」↓↓
《初版本》

 「戀と病熱
 けふはぼくのたましひは疾み
 烏さへ正視ができない

 あいつはちやうどいまごろから
 つめたい青銅(ブロンヅ)の病室で
 透明薔薇の火に燃される
 ほんたうに、けれども妹よ
 けふは
ぼくもあんまりひどいから
 やなぎの花もとらない
 (対応する語句を太字にしました)




『冬のスケッチ』は、宮沢賢治が口語詩の創作を始める前に、1921年の後半から、1922年──つまり、『春と修羅』の始めの作品群と重なる時期までに記されたものと言われています。内容は、口語も文語も取り混ぜた断片的な詩句のメモが順不同に並んでいる感じです(しかも、作品番号も、紙片のノンブルも無いので、全48枚の用紙の配列も、よく分からない状態です)。
しかし、『冬のスケッチ』に、これだけはっきりと対応する詩句が見られる作品は、「恋と病熱」が、ほとんど唯一のものです。

そこで、考えられるのは、

賢治は、さいしょ『冬のスケッチ』の断片的な詩作を試みているうち、
↑↑上引用の断片を書いた時に、初めて、まとまった作品にできる心証を得たのではないか‥。そして、「恋と病熱」という《心象スケッチ》を完成させた。

だから、「恋と病熱」は、いちばん最初に成立した《心象スケッチ》作品で、

1922年3月20日は、賢治が《心象スケッチ》という創作活動を開始した記念すべき日なのではないか?‥

‥ということになります。

それ以前の日付のある「屈折率」以下、「ぬすびと」までの作品は、
3月20日以後に、回想によって、あるいは、きわめて断片的なメモを見て思い出しながら、まとめたスケッチだと考えることができます。

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