ゆらぐ蜉蝣文字


第0章 いんとろ
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0.7.2


たしかに、小沢氏の↑上の推理は、《印刷用原稿》に付された数種類のノンブル(印刷後はページ数の表示になる数字)や、用紙差し替えの痕跡を、詳細に追いかけた論理的帰結でして、それ自体は非の打ち所がないように思われます。

しかし、「序詩」の文章に立ち返ってみると、やはり疑問は解消していないと、ギトンは思うのです:

「これらは二十二箇月の
 過去とかんずる方角から
 紙と鉱質インクをつらね
 (すべてわたくしと明滅し
 みんなが同時にかんずるもの)
 ここまでたもちつゞけられた
 かげとひかりのひとくさりづつ
 そのとほりの心象スケッチです」

「二十二箇月」とは、はたして、最初の作品から最後の作品までの期間を言っているのでしょうか?‥
‥むしろ、文脈に即して言えば、“最初の作品が書かれた時から、‘現在’すなわち「序詩」が書かれた時まで”──なのではないでしょうか?
収録作品には、日付の古いものも新しいものもありますが、それらは、「過去と感ずる方角から」、順々に紙とインクの形になり、細い2本の鎖のように連なって──「影と光の一くさりずつ」──「ここまで」保たれてきたのです。
この文章を、このように読むとき、「二十二箇月の/過去とかんずる方角」とは、“いま”から22ヶ月前、という意味に読めます。
22ヶ月前の「過去」から、「ここまで」、つまり現在まで、詩篇の連なった「くさり」が延びてきている、ということです。

おおざっぱに読むと、「二十二箇月」は、「くさり」の長さ、つまり収録作品の期間のようにも読めなくはないですが、

よく読むと、そうではないのだと思います。

入沢氏は、《初版本》成立過程の復元に主眼があるので、当初の《印刷用原稿》の収録範囲(1923年10月までの作品)の推定から、ただちに
「二十二箇月」を解釈しておられますが、

そこは、もしかすると違うんじゃないでしょうか。。。


〔3〕そこで、「二十二箇月」とは、“最初の作品が書かれた時から、この「序詩」を書いた時まで”、あるいは“「序詩」の日付まで”のことだとすると、

最後の作品の日付が10月か12月か、ということは、あまり重要ではないことになります。

むしろ、最初の作品の日付が1922年1月6日となっている以上、この日付が、じっさいに作品の、あるいはそのもとになったスケッチ・メモの書かれた日だとすれば、「二十二箇月」は、何かの間違えだと思うほかはなくなるのです。。

ところで、22年1月6日の日付がある「屈折率」と「くらかけの雪」については、
じっさいにその前後に、賢治は小岩井農場へ出かけて積雪の道を歩いていることが、これまでの諸研究によって、かなり確かな推定となっています☆

☆(注) 例えば、「小岩井農場・パート九」には「この冬だって耕耘部まで用事で来て」という記載があります。岡澤敏男氏は、小岩井農場に保管されている当時の農場職員の日誌と『春と修羅』の各記述を照合して、「同・パート四」にある・結氷した池で子供たちがスケートをしている描写が、1月6日に池を除雪してスケート場に整備したという日誌の記録と一致することを見出しました。したがって、賢治が1922年冬に耕耘部へ来たのは1月6日だった可能性が高いのです:岡澤敏雄『賢治歩行詩考』,2005,未知谷,pp.43-44.

したがって、これらが、少なくとも作品日付の時期の体験を書いたものだということは、もはや動かせないと思います。
ただ、じっさいに「紙と鉱質インク」で書かれたのは、もっとあとかもしれない、という可能性は残っています!‥

そこで、今度は逆に、「序詩」の日付1924年1月20日のほうから22ヶ月前を逆算しますと、1922年3月20日、あるいは“足掛け22ヶ月”という計算で 1922年4月ということになります。

そのころの日付を持つ作品を見てみますと:

@「恋と病熱」が 1922年3月20日付です。これはまた、ピッタリ22ヶ月ですが‥(笑)

こんなにピッタリだと、かえってマユツバに見えるかもしれませんが。。。
賢治に意図があったとしたらどうでしょうか?

つまり、賢治は、何か意図があって、「序詩」の日付を「恋と病熱」に揃えて20日とし、「二十二箇月」と書き記した、とは考えられないでしょうか。

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