ゆらぐ蜉蝣文字


第0章 いんとろ
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【7】 「二十二箇月」問題





0.7.1


『春と修羅』劈頭の「序」には、

春と修羅・序詩

「これらは二十二箇月の
 過去とかんずる方角から
 紙と鉱質インクをつらね
  〔…〕
 ここまでたもちつゞけられた
 かげとひかりのひとくさりづつ
 そのとほりの心象スケッチです」

というクダリがあります。しかし、すでにお気づきの方もいると思いますが、この「序」の最後には、

「大正十三年[1924年]一月廿日  宮 澤 賢 治」

と書かれており、


収録の最初の作品「屈折率」は、1922年1月6日付です。
最後の作品は、1923年12月10日付の「冬と銀河ステーション」。

1922.1.6.〜1924.1.20.なら
「二十二箇月」ではなく「二十四箇月半」ではないか!

1922.1.6.〜1923.12.10.としても
「二十三箇月」になってしまう。。

…これはたしかに矛盾なのです。



〔1〕一つの考え方は、「二十二箇月」は、単なる誤りだと考えることです。研究者も含めて、多くの読者は、実は、そう思っているのではないでしょうか?
《印刷用原稿》の「序詩」の部分は戦災で焼失しており、その他の下書きも残っていないので、賢治の計算間違えなのか、印刷ミスなのかは、分かりません。
しかし、印刷ミスの可能性が高いとギトンは思います。

というのは、この《初版本》は、とにかく誤植が多いのです。これは、印刷を頼まれたのが、開業まもない花巻の町の印刷屋さんで、活字のストックも無いために、8頁分だけ印刷しては、組版をバラして、次の8頁分を組む‥というやり方で印刷したほどだったのです。印刷業者が、書籍の印刷をした経験がないうえに、賢治も本を出すのは初めてで、校正の要領が解らない。つまり、本の専門家が全くいなかったので、これほどの誤植が残されているのです。

したがって、月数の1ヶ月や2ヶ月の間違えなど、あえてほじくるほどのことでもない!──のかもしれません‥‥


〔2〕しかし、この“謎”にまともに向き合って、そこから自説を展開している人もいます。そのひとりが、宮澤賢治全集の編集委員で、賢治研究者でもある入沢康夫氏です☆

☆(注) 入沢氏の関係論考は、入沢康夫『宮沢賢治──プリオシン海岸からの報告』,1991,筑摩書房,pp.76-126,336-344.に収められ、そのうち重要な部分は、『新校本宮澤賢治全集・第2巻・詩[T]』「校異篇」,1995,筑摩書房,pp.13-17,169-188.に再録されています。

入沢氏は、戦災後に宮澤家で発見された『春と修羅』《初版本》の《印刷用原稿》を、文献学的手法(内容ではなく、資料の現存形態、変遷の痕跡、付された数字等の分析)で詳細に研究された中で、次のような推定を提示しておられます。

すなわち、《印刷用原稿》が成立した最初の段階では、この本は、1923年10月までの作品(全61篇★)で終っていたのです。その後、9篇が新たに追加され、(少なくとも)1篇が削除されました。
そうすると、10月までの作品で成立していた当初の『春と修羅』は、1922年1月から1923年10月までの約22ヶ月間、ということになります。
そして、「これら二十二箇月の」という詩句を含む『序』は」23年11・12月の「二篇が追加されるより以前に…書かれたのではないかと考えられて来る」(入沢『プリオシン海岸』p.116)。

★(注) 小沢氏は、この分析結果を発表されたあと、まもなく、62篇目にあたる作品「自由画検定委員」の《印刷用原稿》を発見されました。そのため、“当初の《印刷用原稿》は10月で終っていた”という分析結果は、現在では疑わしくなっています。というのは、この「自由画検定委員」までの当初の《印刷用原稿》を、「8頁ひと折り」に割り付けてみますと、「自由画検定委員」の最後のノンブルは284ページ。「8頁ひと折り」ですと、4ページ分があまってしまうのです。「自由画検定委員」の後に、さらに、《印刷用原稿》の発見されていない“作品x,y,‥”があった可能性が高いことになります。また、「自由画検定委員」自体の成立も、1923年11月11-15日に開かれた児童自由画展覧会の出品画に取材したスケッチであることが判明し、11月の可能性が高いことが明らかになりました(⇒:8.10.1)。したがって、入沢氏の推定された当初の【印刷用原稿】についていえば、収録作品の期間は「二十二箇月」ではなく、23ヶ月以上です。もっとも、その後の【印刷用原稿】の差替え追加は、2段階に行なわれています:まず、「自由画検定委員」,x,y,‥を削って、「一本木野」「鎔岩流」に取り替え(入沢氏の《第2段階》)、ついで、その後にさらに「イーハトブの氷霧」「冬の銀河ステーシヨン」を追加(《第3段階》)(⇒:8.1.8)。この《第2段階》の巻末2作品は、1923年10月28日付なのです。つまり、《第2段階》と《第3段階》の間に「序詩」が書かれたのだとすれば、入沢氏の説はなお維持できることになります。たしかに、入沢氏の推定では、この間に【印刷用原稿】が印刷所に渡されたことになっているので、論理は一貫するのですが‥
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