ゆらぐ蜉蝣文字


第0章 いんとろ
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【1】 《名づけえぬもの》へ ──『序詩』について





0.1.1


『心象スケッチ 春と修羅』の冒頭には、詩の形で書かれた作者の「序」が、おかれています。
詩で書かれているので、「序詩」と呼びたいと思います:春と修羅・初版本「序詩」

はじめて読む人には、これは“判じもの”かもしれません。

てっとりばやく先へ進みたい方は、この《いんとろ》の【3】へ飛ぶのがよいと思います:いんとろ【3】
「序詩」の内容説明とか、むずかしいことは、‥いっさい省略して書いています↑

さて、この【1】では「序詩」の内容を、【2】では、それを踏まえて、賢治詩の特徴──というより、宮沢賢治の詩は、これまでどのように読まれてきたのか?‥、どう読んだら読みやすいのか?‥、読み方のコツみたいなものをまとめてみました。

もちろん、“こう読まなければならない”というような規範があるわけではありません。

いや‥ギトンは、世間の詩人たち学者たちの“こう読まなければならない”‥が、おもしろくないからw。。。はずれた読み方をしてみたいからwww。。。こんなものを書いているのです(^^)v

詩の読み方なんて、本来は自由なはずです。どう読めなんてことは、ありえない。。。

しかし、自分に適した読み方を見つけるのは、なかなかどうして、かんたんなことじゃありません。。。 とくに、宮沢賢治の詩のように“わけのわからない”ものは‥‥

なので、ギトンなりに見つけたコツは、いくつかありますので‥、それを読んで参考にしてもらえば、
最初から素手で取り組むよりも、‥あるいは世間で言うことを真に受けて遠回りするよりも‥、かなり時間の節約になるんではないかと思いますv

「序詩」も、作者が書いて最初に置いただけあって、
宮沢賢治が、詩──じつは「詩」ではなくて《心象スケッチ》だと彼は言うのですが──によって表そうとしたことは、どんなことなのかを、説明しているのです。





宮澤賢治という人が、私たちの大部分と違うのは、非常に特別な環境に生まれたことがあると思います。

彼の父・政次郎は、浄土真宗の熱心な信者で、しかも各宗派を集めた《花巻仏教会》の会長をしていました。
政次郎氏の知友には、内村鑑三の弟子として著名な“花巻の無教会キリスト者”斎藤宗次郎がいました。
毎年夏には、浄土真宗を中心に各地の高僧を招いて、花巻近郊の温泉地で研修会を開き、賢治は宮澤家の長男として、小中学生の頃から、これに参加していました。
つまり、非常に宗教的な家庭で育ったのです。

しかし、その反面、政次郎氏の家業は“古着屋”──実質的に言うと、着る物以外に質草の無い貧しい農民がお金を借りに来る高利貸しでした☆。長男賢治も、次男清六氏も、この家業を継ぐのがいやでいやで堪らなかったのです‥

☆(注) 気が重いので、調査が進んでいないのですが、宮澤家は、質屋営業の許可を取っていた形跡が無いようなのです‥。つまり、違法営業、あるいは“グレーゾーン”で営業していた疑いがあります。もし違法営業だとすると‥、地方では比較的そういうことに寛容だったとはいっても、なにがしか“裏の世界”との繋がりなしにできることではないと思うのです。そういえば、作品を読んでいても、賢治には工事関係者(現場監督のような)の知り合いが多いようですし、建築材料卸の関係に人脈がうかがわれます。偽造浮世絵や模造宝石といった分野に、非常な関心を示していた時期もあります。関係者がすべて物故し、もはや誰も傷つける恐れのなくなった現在では、こうしたことにもメスを入れていかなければと思っています。

つまり、非常に宗教的な環境でありながら、それと相反する、いわば“うしろぐらい”家業という矛盾を抱えていたのです。

そうした“矛盾”は、いつか宮澤賢治の中で表面化したのかもしれません。。。 賢治は、父のような宗教家兼“財閥”★の道を歩みませんでした。

★(注) 政次郎氏は、後年(賢治の死後)、自分の生涯を回顧して、生きている時間の大部分を宗教にささげた、これほど宗教に献身しなかったならば、三井・住友に匹敵する財閥を打ち立てていたのはまちがいない、と豪語していたそうです。

青年となった賢治は、純粋な宗教家からあえて離れて行こうとするように、中学時代の鉱石採集や高等農林学校で学んだ科学知識の分厚いバックボーンを身につけていました。

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