ゆらぐ蜉蝣文字
□第0章 いんとろ
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【4】 異界から伸びる手
0.4.1
こんにちは!
ギトンです ☆彡
ミヤケンの詩といえば、いちばん有名なのは、↓これでしょう。
「雨ニモマケズ
風ニモマケズ
雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ
丈夫ナカラダヲモチ
‥‥‥‥」
宮沢賢治の詩といえば、これしか知らない人もいるでしょうし、
「銀河鉄道は好きだけど、雨ニモマケズは道徳臭くて嫌いだ。」
という人も多いことでしょう_^)ノ wwww
そういうギトン自身、「雨ニモマケズ」は大嫌いです! v(^_^)/
なぜ嫌いかといえば、
これのおかげで、ミヤケンという人物が良くも悪くもたいへん誤解されてしまっているからです。
「雨ニモマケズ」は、本人は発表する意思のなかったただのメモにすぎない──とも、よく言われます。
おそらく、↑そうにちがいないでしょう。
発見経緯☆から推論できることは、
死の2年前以後に手帳に書き付けたまま、友人に見せたこともなかったということです。
☆(注) この手帳は、賢治が亡くなった時には身辺の書類や形見品の中には無かったのですが、翌年、宮澤家の土蔵の中にあった“大きなトランク”の蓋裏のポケットに入っているのを、弟の清六氏が見つけたものです。このトランクは、1921年に賢治が“大量の童話原稿”を持ち帰るために東京で購入し、その後は2回出番があっただけで、ずっと土蔵の奥にしまわれていたのです(宮沢清六『兄のトランク』,ちくま文庫,pp.87-96)。手帳の初めに、1931年9月東京の出張先で病に倒れたことが鉛筆で記され、その後は、病床で記したと思われる仏教関係の書付け(法華経の題目など)が続き、ところどころに断片的な創作詩があり、最後は、“庚申塔”の筆写を集めたメモになります。
しかし、本人は、亡くなる前に、わざわざ土蔵の奥に入り込んで、放置されている“大きなトランク”のポケットに、この手帳を差し込んでいるのです‥。
本人には、何らかの意図があったと、思わなければならないでしょう。
死後相当たってから発見されるように仕組んだ“いたずら”なのか?‥(←この人には、よくあることですw)
それとも、“死出での旅”に携行するトランクの用意なのか?‥
ともかく、その手帳に記された雑多なメモや、書きかけの詩断片の中で、この「雨ニモマケズ」だけが、死の数年後には、石碑に刻まれて顕彰されることになったのです。
揮毫したのは高村光太郎ですが、この詩の後半‥
「野原ノ松ノ林ノ蔭ノ
小サナ萓ブキノ小屋ニヰテ」
から後の部分だけを碑にしています。
おそらく、この部分にだけ詩としての価値があると考えたからでしょう。
しかし、公表されたあとの・この詩の扱われ方は、あまり“芸術的”なものではなかったと思います。最悪の意味で、受容〔第T期〕の立役者になってしまった観があります。
それは、現在でも尾を引いています:
「ミンナニデクノボートヨバレ
ホメラレモセズ
クニモサレズ
サウイフモノニ
ワタシハナリタイ」
この「デクノボー」をことさらに誉めそやす解釈が盛行していますが、ギトンは‥なんだそりゃ?!‥という気がします。
それよりも、最後から2番目の行「サウイフモノニ」のほうが重要な鍵になるかもしれません。
何気なく、「そういう者に」と読んでしまうかもしれませんが、
これは、「物」と読まれるべきだと指摘されたのは、平澤信一氏でした。
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