ゆらぐ蜉蝣文字


第0章 いんとろ
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0.3.3


さて、森佐一が宮澤賢治に手紙を書くと、賢治は、『岩手詩人協会』代表を名乗る相手は立派な大人の詩人だと思い込んで、

「詩の雑誌御発刊に就て、私などまで問題にして下すったのは、寔に辱けなく存じますが、〔…〕これらはみんな到底詩ではありません。〔…〕どうかしばらく私などは構はないでこゝらにそっと置いて下さい。」
(1925.2.9.書簡番号[200])

「あなたがもし北小路幻氏であればわたくしは前からあなたを尊敬してゐます‥」
(1925.2.19.[202])

と、賢治は、恐縮至極の返事を書きますw。そして、自分の書いたものは「到底詩ではありません」。。。と言って、『協会』機関紙への寄稿を辞退するのです‥

そこで、森は、花巻の梅野啓吉に頼んで紹介してもらい、宮澤賢治に会うのですが、
賢治のほうは、まさかこの中学生が、手紙の相手の『詩人協会』代表だとは思っていない(笑)‥

あいかわらず手紙では恐縮至極‥
ちぐはぐなやりとりが、しばらく続きます。

やがて“運命の日”が訪れました‥

ある日、宮沢賢治が、何の前ぶれも無く、盛岡の森佐一の家に訪ねて来たのです。
‥‥もちろん、賢治は、尊敬する詩人にして詩人協会代表の「北小路幻」氏を訪問しているつもりです。。。

「飛び出して行った私は、日和下駄をつっかけて門口に出ると、ぴょこんとおじぎをした。宮沢さんは、しばらく、ふに落ちない、どうもおかしいという風に、頭のさきから、足のさきまで、ちらちらとみてから、まじまじと私の顔を見つめた。黒いオーバーの肩に雪がつもり、停車場から傘もささずに来たものと見えて帽子をぬいで雪をおとすしぐさをしながら、ややあって、
 ──その辺まで出ませんか?──
と、さそった。
   〔…〕
 私は番傘をさしかけて、宮沢さんと連れだって外に出た。中学生の小倉服
のままである。

 ──あなたを、三十ぐらいのひとと思っていましてね。新聞にお書きになったものなどから想像して、私と同じ年ぐらいのひとかなと思っていましたよ。はあ、四年生ですか。 ──」

(『宮沢賢治の肖像』,pp.259-261)

☆(注) 小倉[こくら]服:ここでは、小倉織りの学生服。小倉織りは、北九州の小倉などで生産された厚手の木綿生地:画像ファイル:小倉服

森が連れて行かれたのは、当時盛岡にただ1軒あった西洋料理店で(⇒“西洋料理店”のあった盛岡劇場付近)、もちろん中に入るのは生まれて初めて‥西洋料理を食べるのも、森は生まれて初めてでした。

奥の個室に通されると、賢治は、──ここが『注文の多い料理店』ですよ──と言って笑います。

「白いナプキンと銀のナイフやフォークが、三いろもならべて置かれたとき、私はますます恐ろしくなったが、またどきょうの坐るのを覚えた。

 それから、むづかしい話がはじまったのだ。
 その人のする通りナイフとフォークをとってまねをして食べなければならなかったし、話も聞かなければならなかった。〔…〕その人の話すことは、私の知識のそとがわにあることばかりであった。

 非ユークリッド幾何学や氷河期や法華経や、ベートーヴェンなど、ともかくこの人の後から後から話すことを、私は何パーセントとも言えないぐらいしか理解できなかった。私は、えんえんと燃える火事とか、とうとうと流れる洪水とか、そういうものを見る人のように、心の中では呆然としていながら、口ではただ『ハアハア』と、うなづくように返事をして、わけもなく笑ったりしつづけた。私はまた、暴風雨のようなものに、うちひしがれた一本の草のやうでもあった。けれども私は、こころも顔も、ひかりかがやくような、私の周囲にはもちろん、どこでも見たことのない人を見て、卑屈になったり、まいったりするヒマもなかった。不思議な人が、この世にいたものだと、びっくりしていた。」

(『宮沢賢治の肖像』,pp.261-262)

すると、賢治は立ち上がって、「星めぐりの歌」「ポラーノの広場の歌」など自作の歌を

「力いっぱい歌い出した。〔…〕そして歌のあとさきに、それらの劇やストーリーや演出を語った。」

次々に、大きな声で歌ったので、女給(ウェイトレス)が、びっくりしてドアを開けて覗いたそうです。

最後は、封筒から10銭銀貨ばかりをジャラジャラ出してテーブルの真ん中に積み上げて立ち去りました。

「──ああ愉快でした。せいせいしました。花巻にもぜひ遊びに来て下さい。──」

(『宮沢賢治の肖像』,p.263)


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