ゆらぐ蜉蝣文字


第0章 いんとろ
15ページ/39ページ


0.3.2


そこで本題に戻りますが、初めて見せられた賢治の詩「陽ざしとかれくさ」は、

森佐一も、これは、わざとわけの分からないヘンテコなものを書いて人をケムに巻いているだけだ‥‥としか思わなかったようですw

ところが、まもなく、この詩も収録された『春と修羅』が発行され、森佐一も、偶然の機会から、その一冊を目にすることになります。

じつは、賢治のイトコの関徳弥という人が、たまたま『春と修羅』を印刷した印刷所のそばに住んでいたので、賢治から、100冊ほど売るように頼まれちゃったんですね(…住んでた場所がウンの尽きですねえ ^_~;ゞ:画像ファイル:印刷所(跡)

関は、知り合いじゅうに無理やり頼み込んでも売り切らないので、
師範学校の生徒だった照井壮助という人にも、20冊回してよこした゚д゚)/

しかし、照井は、著者をよく知らないし、詩なんて分からない‥、値段(当時2円40銭。今なら2400円以上)だけの価値のある内容かどうか判断できないので、後輩の森に見せて、

「オメハン判断してくれ」

と言ったのです。

ところが、森は、渡された詩集をめくって見るやいなや、

「その序詩から、私は強烈・新鮮な、たとえようもない独自なものをかぎとった。……しばらくは、私はそこに照井壮助がいることも忘れて頁をくくりつづけた」

壮助 なじょだべなはん?[ドウダロウネ]
佐一 ‥‥‥‥‥‥‥‥
壮助 いいものだべすか?けえねもの[ダメナモノ]だべすか?
佐一 ‥‥‥‥こいつは、たいへんだ、たいへんなもんだ…
壮助 はあ、そすか。えがった。それだれば、えがった。
(『「春と修羅」研究U』,pp.106-107)

こうして、宮沢賢治の真価を認めた森は、さっそく著者に手紙を書いて、《岩手詩人協会》に入会してほしいと勧誘するのですが…

ここで注目したいのは、『心象スケッチ 春と修羅』という書籍の持つ説得力なのです。
収録された詩が、自分の同人誌に載ったのを見ても、まったく評価を持たなかった森が、一冊の本になった形で読んだとたんに、「こいつは、たいへんだ」と叫んだのです。

それは、装幀もさることながら、巻頭に、「わたくしといふ現象は」で始まるあの「序詩」を置き、

日付順に置かれた個々の詩の並べ方も、理解ある読者を引き込んで離さない絶妙な流れを造っているのでした。

頁をめくると次々に現れる見開きが、スペクタクルのような詩想の展開を、目の当たりに見せてくれます。

 ⇒★★★ 電子ブック『春と修羅』(残念ですがPC専用です) 心象スケッチ 春と修羅【初版本】(こちらは、ガラケでも閲覧できるように作りました。ただし、原文の縦書きを横書きに改めています) ←【初版本】のデジタル書籍をめくってゆくと、原則として、見開きの2頁が1個または2個の作品に宛てられており、見開きの最初の頁(つまり偶数頁)は、たいてい詩の表題で始まっています。しかし、もちろん各nの行数・字数は決まっています。つまり、作者は、ちょうど見開き2頁に収まるように、各詩篇に手を加えたということになります。賢治は、この詩集を、単に詩を集めたものとしてではなく、この本全体が視覚に訴える一箇の作品として造形したのではないかと、ギトンは思うのです。





たしかに、この本は正式には売れませんでした。東北の無名の詩人に2円40銭も出す人は稀れだったのでしょう。

しかも、この本の発行人になっている「関根」という人が‥当時出版界でケチネと呼ばれた悪質な業者で、賢治から預かった約400冊を、販路に回さずに、二束三文で“ゾッキ本”(最低価値の古本)として処分してしまい、賢治にはカネを払わなかったらしいのです。。。

こうして、『春と修羅』は、当時、東京の古本夜店(道端の地べたで、夜になると店を広げた露天商)には、20銭、30銭の値段で、どこにでもあったと言います。

それが現在では…、

『春と修羅』の【初版本】がどこかで1冊発見されるたびに、ネットをニュースが駆けめぐるほど、
【初版本】は、この世にほとんど存在しないのです。

…つまり、夜店に出ていたゾッキ本は、みな売り切れた、ということだと思います。
.
次へ
前へ  

[戻る]
[TOPへ]

[しおり]






カスタマイズ