ゆらぐ蜉蝣文字
□第0章 いんとろ
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0.2.4
それでも、〔第V期〕に目立つのは、実証的傾向の議論が増えたことではないでしょうか。
それは、作家や、作品の背景である歴史的事象に関する調査解明もあり、鉱物、化学、植物等の知識を援用しての・作品そのものを構成する部品の客観的な解明もあります。
宮沢賢治の詩作品については、これまであまりにも、作家“伝説”や作家心理の憶測による先入見で、解釈がゆがめられることが多かったように思います。
したがって、そのような“作品外の知識”のゆがみを、作品外で正すことは、
むしろ“雑音”の混入を避けて作品そのものの評価に向かうために、必要な手続ではないかと、ギトンは思うのですが。。
◆◇◆第U期の宮沢賢治像◇◆◇
そういうわけで、現在でも、宮沢賢治のまとまった作家像ということになると、〔第U期〕を参照せざるを得ません。
ここでは、『春と修羅・第1集』への導入が目的なので、賢治の詩作品を中心とした通説的理解として、小沢俊郎氏を参照したいと思います。
小沢氏は、〔第U期〕の中ではきわめて実証的な態度で研究を進められたことでも、よく知られています。
小沢俊郎氏の重要な鑑賞文をまとめたものが、『薄明穹を行く──賢治詩私読』☆として公刊されているので、手軽に入手して読むことができます。
☆(注) 薄明穹を行く - 版元 薄明穹を行く - amazon
小沢俊郎氏が、賢治の《心象スケッチ》から読み解かれた賢治像は、
つぎのように↓まとめることができると思います:
(1)自己に厳しく、禁欲的であったために、特定の女性と恋に落ちることがなく、彼の性的欲求はもっぱら‘自然との交感’に向かった。
(2)求道心が旺盛で安逸な生活には飽き足らず、いつも敢えて困難な領域を探し求め、それへ向かって行った。
これは、今日の‘通説’的な賢治像と言っていいのではないでしょうか。
(1)は、とくに‘自然との交感’については、作品を読んでいて頷きたくなることが多いのですが…それを禁欲と結びつけるだろうか?‥という疑問があります。
宮澤賢治の「禁欲」ということ自体、実証的には疑問です。
「禁欲」という先入観で作品が読まれ、そうして読まれた作品が“証拠”となって、禁欲的な作家像が補強される──そのような空虚な循環があるように思います。
「克己」的「禁欲」的な賢治像と矛盾するさまざまな伝記事実も発掘されてきましたし、
またそれ以上に、さまざまな伝記的事実も、作品も、賢治の「同性愛」志向を意識して再検討してみると、今まで見えてこなかったものが見えてくるはずです。
(2)については
一口に「求道心」と言ってよいかどうか、ギトンは疑問を持っています。本人にさえ留めることのできなかった衝動なのではないか?‥
この衝動が、恋愛、同性愛の方向へ向かって行ったときに、どんな宮沢賢治像が焦点を結んだのか?‥それはたいへん興味ある問題です。
逆に、そうした過度の真摯さから、本人は離れようとして、さまざまにチャラいこと、オシャレなことをしてみたふうもあります。
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