ゆらぐ蜉蝣文字


はじめに
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Sindbad book marks







はじめに



宮沢賢治が生前公刊した唯一の詩集『春と修羅』全詩篇に語注と解説を付ける──こんなことをしたのは、おそらくこのEブックが初めてではないかと思います。

“何か知りたいことがあったら、それについて自分で本を書くのがいちばんよい”──そんな意味のことを、西洋の有名な誰かが言っていたような‥(誰だか忘れたw)。

ド素人の身をかえりみずに、こんな途方もないことを始めてしまったのは、自分で分からなかったからです。

宮沢賢治の詩をいくら読んでも、さっぱり意味が分からなかったのです。辞書を引いても百科事典を見ても解らない。本屋さんで売ってる解説書を読んでも、やっぱり解らない‥。

それならば‥、誰にでも分かる本を自分で作ってしまうしかないだろう‥と思って始めて、ようやく『心象スケッチ 春と修羅』の終りまで来たので、Eブックにまとめてみることにしました。

ここまでにかかった時間は約2年。宮沢賢治が書いた時間も約2年w‥しかも、ギトンがこの間に読みこなしたのは詩だけでして、著者のほうは、同じ時期に童話も沢山書いている‥

。。。とすると、こんご著者が亡くなるまでと同じ時間かけたって、全部は読めないことになります‥‥長生きするしかないねw

たしかに、宮沢賢治の詩についての論文は山のように出ています。

本になったものも、専門書店の書棚をワン・セクション占めるくらいあります。宮沢賢治用語事典のような辞書類も何冊か出ている‥

‥しかし、《全作品解説》とか《全詩解説》というような本は見たことがありません‥どころか、『心象スケッチ 春と修羅』1冊に限っても、全作品解説のようなものは、おそらく出ていないと思うのです。

宮沢賢治という詩人のあらゆる側面を理解しようとすることは、個人の力量を超える企てなのでしょうか?

研究者もマニアも、自分の好きな詩‥あるいは、自分に分かる詩だけを取りあげて説明し、それ以外のものは‥ワッカラン‥シランッ‥

‥なんじゃないかと思うのですが。。。

菅原千恵子氏が『宮沢賢治の青春』(1994年)の中で、次のように言っておられるのです↓:

「現実に『春と修羅』のどの解釈を見ても、それぞれの研究家が自分の立っている位置から森に入り、そこに沼があったとか、鳥がいたという報告をしているようなもので、森全体を立体的に眺めたようなものに出くわすことはほとんどないといってよい。」

(角川文庫版,p.154)


これは、現在でも通用する指摘なのではないでしょうか?‥

よし‥それならば、森全体を、すべてくまなく見て回って、沼もあった、鳥もいた、花も咲いてた、リスもいた‥と、何もかも見た‥これが森のすべてだ‥という報告をしたらいいんじゃないかw

“木を見て森を見ず”は、一本の木だけを見ているからそう言われるのであって、森の木を一本一本全部訪ねて報告記を書いたら、読者には森のことがいちばんよく分かるのではないか?‥

2年近くにわたって書き溜めてきたものを、いま読み返してみると、とくに最初のころ書いた部分は、考察も調査もまったく不十分で冷や汗ものです。

そして、研究文献は膨大です‥‥できるだけ読むようにしてはいるのですが、時間的にも環境的にも素人には著しい限界があります。

足りない部分は、今後補充していきたいと考えておりますので、お気づきの点は、メール等でギトンまでご指摘いただければ、ありがたく存じ上げる次第であります。


2014年立春 ペトロニウス・ギトン記す



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