宮沢賢治の《いきいきとした現在》へ


第5章 「心象スケッチ」がめざしたもの
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 私はいま、机の上にパソコンを乗せてたたいていますが、ひじの下にあるのが「机」であることを、ざぶとんでも、私のひざでも、となりの家の屋根でもないことを、私は知っています。しかし、「机」とは「何であるか」(本質)、私はつねに明確に意識しているわけではありません。それでも、私は、「机」の《本質》を、いつも何らかのしかたで、なんとなく理解しているのです。

 つまり、「机」の《本質》を、(明晰にではないけれども)《直観》しているのです。


「私がいま『これは机だ』と認識=判断しているとき、普通はその『机』とは「何であるか」(すなわちその「本質」)について、いちいち明確な意識をもっているわけではないであろう。しかし、だからといって私は『机』とは『何であるか』を知らないわけではもちろんない。『机』の『本質』は、私がそこに『机』を見てとっているとき、すでに何らかの仕方で理解されているのである。」

斎藤慶典『フッサール 起源への哲学』,2002,講談社選書メチエ,p.118.


 私は、「机」の上でパソコンをたたいているとき、あえて「机」という言葉を思い浮かべなくても、隣りの屋根や、自分のひざと見くらべることによって、それが「机」であることを、なんとなく理解しています。つまり、《本質》は、必ずしもコトバがなくてもよいのです。コトバ以前のもの、あるいは、コトバの直前のものだと言ってもよいかもしれません。

 もし、誰かが私のへやの机をどこかへ持って行ってしまったら、私はへやに入ったとたんに、「あ、机がない。」と思うでしょう。「あ、机がない。」というコトバを発するより前に、私は机が無いことを感じているでしょう。

 その場合でも、私は、「机」の《本質》を見失ったわけではありません。「机とは、何であるか」その《本質》を、なんとなく理解しているからこそ、私は、「机が無い」―――私が使っていた「あの机」が無いだけでなく、そもそもへやには、どんな「机」も無いという判断ができるのです。

 つまり、この世に在る机はみな、それぞれの“場所”にありますが、「机」の《本質》は、どこかに置いてあるわけではない。にもかかわらず、それは、いつでも、どこにでも存在しているのです。《本質》とは、そのような普遍的な存在です。


 


 このように、現象学で言う《本質》は、私たち誰でもが、日常いつでも、なんとなく理解していることにすぎません。プラトンの“イデア”のような高尚なもの(それも《本質》ですが)でなくてよいのです。プラトンは、“泥のイデアなどというものは無い”と言いましたが、「泥」にだって「うんち」にだって《本質》はあります。《本質直観》(本質看取)は、誰でもが行なっていることなのです。

 しかし、《本質》(「机」とは、何であるか)を、もっと明確に認識しようと思ったら、頭のなかで想像力を駆使して、《自由変更》という操作を行なえばよいのだ、とフッサールは言います。


「私は当の『机』を、目の前にあるそれを離れて、みずからの想像のうちで自由に変更することができる。
〔…〕『机』が『机』であるためには、〔…〕天板は正方形でも長方形でも、場合によっては三角形でもよい……、足の数は4本でも5本でも、〔…〕色は黒でも黄色でも白でも、〔…〕これらのさまざまの可能性を私は、想像力を駆使して思い描いてみることができる。」

 しかし、その一方で、
「机であるからには天板がでこぼこしていては用をなさない。一定の角度以上に傾斜していては使いにくい、〔…〕……というように、もはやそれなしでは机が机でないさまざまな可能性をも、同じく想像力を駆使して思い描くことができる。」
『フッサール 起源への哲学』,pp.118-119.


 これが、《自由変更》という操作です。

 《自由変更》の
「操作を通じて、いまや私は、机の何であるかを『明確に』『ありありと』『直接に』捉えていることになる。〔…〕いまや机は、その『本質』が明証性において『直観』されていると言ってよいのである。」
『フッサール 起源への哲学』,p.120.
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