宮沢賢治の《いきいきとした現在》へ


第5章 「心象スケッチ」がめざしたもの
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「    家

 おほいなる秋のあぎとは
 ほのじろく林をめぐり
 官
(つかさ)の手からくのがれし
 社司の子のゆくゑ知られず

 社殿はゆふべののりと
 ほのかなる泉の声や
 そのはははことなきさまに
 しらたまのもちひをなせる」

〔下書稿(四)手入れ〕


 ふたたび焦点が移動し、タイトルは「家」に替わりました。第1連から第2連に移ったと言ってよいのですが、第1連の内容も変貌しています。

 〔下書稿(三)〕の焦点になっていた友人の暗い表情が消え、そもそも友人は舞台からいなくなっています。同時に、「なれ」という2人称語も削られ、「なが母」は「その母」として、「なが父」は、社殿の「のりと」の声としてのみ表現されます。 

 作者と作品の場面とをつないでいた“特別のつながり”が取り払われたので、読者に与える印象は、作者の体験というより、町の神社に起きた第三者的事件、あるいは、小説の一場面のようになっています。つまり、作品は、作者につながる“へその緒”を切られて、一般化・普遍化したと言えるでしょう。

 しかし、《体験》の一回限りのなまなましさは、むしろ強調されています。そのひとつが、〔下書稿(二)〕にあった「水の音」(「泉の声」)の復活です。

 「官
(つかさ)の手 からく逃れし」(危ういところで官憲の追及を逃れた)は、この作品を一挙に分かりやすくしましたが、「秋のあぎと」の不気味さとも、神社の静寂なたたずまいとも矛盾がありません。そもそもの 1919年の作者の“原体験”は、(作品外の事実関係では、阿部孝氏ではなさそうですが)友人の誰かが思想警察の追究を受けた、といったできごとだったのではないか、とさえ思われてきますが、それは、事実の推定というより、“作品の力”の証明かもしれませんw

 むしろ、日常馴れ親しんでいた風景が、ある時突然、その“原初”の相貌をあらわにするというのも、感情経験としてありうることだと思います。1919年秋の《体験》は、何かおもてだったできごとではなく、そういう個人的な驚異の体験だったと考えてもよいように思うのです。それでも、自分の日常生活の空間を取り囲む世界の異形の姿に接したことは、強く賢治の記憶に刻まれたはずです。そして、かなり後になってから、信頼する友人と両親、その神社のイメージを、この異空間と拮抗させることによって、作品として仕上げて行ったのではないかと思います。




鼬幣稲荷神社


「この推敲形で『官の手』が出て来たことで『なれ』は官憲に追われる身であるという設定になり、『ゆくゑ知られず』と身を隠したこととなり、
〔…〕下書稿(三)までとは全く一変した。

 こうなってみると、『そのはは』が『ことなきさまに』白玉餅を作っている姿が何とどっしりと重みを増すことだろう。おそらく危険思想のゆえに官憲に追われるわが子を信じ抜いて、そっと逃げさせ、さりげなく日常の営みを続けている父と母。その姿に賢治の感動は向けられ、題は三転して『家』とされる。

 この『家』は、当時一般的にそうであったような家父長制的な家ではなく、親と子が信頼によってしかと結ばれ合っている家庭としての家である。ここに描かれた(阿部親子の)家は、賢治が心の底で求めていた家の一典型であったかもしれない。」

「『秋のあぎと』考」,in:『小沢俊郎宮沢賢治論集3』,p.37.


 両親は、なにごともなかったかのように、父は夕べの祝詞を上げ、母は社殿に供える白玉餅を用意しています。そうしたさりげない振る舞いが、かえって両親の愛情の深さとともに、静かな安定感を感じさせます。

 この段階で作品は、当時日本のどこの町のどこの家・神社に起きてもおかしくないできごととして、普遍化されていますが、新聞記事のようになってしまうのではなく、そこには、阿部孝の家庭という、作者が接した生き生きとした対象の相貌が刻印されています。
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