宮沢賢治の《いきいきとした現在》へ


第5章 「心象スケッチ」がめざしたもの
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「森も暮れ地平も暮れて
 シグナルに赤き灯はつき
 ほのじろき秋のあぎとは
 はかなくも四方をめぐりき
 やつれたるなれをとはんと
 そがなかを急ぎて来しに
 かなしみのさはふかかりし
 あゝなれのつめたくわらふ」

〔下書稿(一)手入れ〕

 
 〔下書稿(一)〕は、『歌稿B』の欄外に、追加の2首(737a738, 737b738)とともに鉛筆でメモ書きされているもので、上はそれに手を入れて字句を直した形です。

 したがって、この改作は、2首の追加とほぼ同時に行われたと考えられます。

 #737a738 の歌で、「たそがれの/森をいそげば」と、作者が急いでいた理由が、ここではじめて示されます。友人の急な知らせを聞いて、焦慮しつつやってきたところ、友人は深い悲しみに打ちひしがれて、「冷たく笑」っているという情況です。

 この改作形では、「秋のあぎと」も、「ほのじろき」「はかなくも四方をめぐりき」となっていて、“恐ろしさ”という点ではトーンが落ちているかんじを受けます。

 「秋のあぎと」への恐怖―――それは、「薄明をわがひとりたどれる」孤独な作者を襲うものでした―――は背景に退いて、友人への焦慮のほうが主題化しています。「シグナル」の「赤き灯」の登場も、「かなしみ」を強める一方で、最初の短歌の恐怖のイメージは薄らいでいます。


 


 ともかく、5・7調の詩形に改作されたことで、《体験》がいくらか具体的に語られることとなりました。ただ、この《体験》は、のちほど検討するように、どうも作者の実体験ではないようなのです。フィクションかもしれないのです。1919年の実体験が何だったのかは、私たちにはわかりません。

 そして、この段階でも、友人の苦境への作者の焦慮、「つめたくわらふ」友人の「かなしみ」と、作者と友人とこの町を囲繞する不気味な「秋のあぎと」との関係は、いまひとつはっきりしません。そこに、フィクションをさらに伸ばしてゆく余地があると言えます。



「   訪 問

 うちけぶる 稲穂の面や
 森も暮れ  地平も暮れて
 巨いなる  秋のあぎとは
 ほのじろく 野をめぐりにき

 ながおもひ やぶれしをきき
 いそがしく おとなひくれば
 ながいへに 黄なる灯はつき
 水の音   いともしづけし

 杉むらは  まくろによどみ
 はゞたける 鳥のけはひを
 かなしみの さはふかかりし
 ああなれの つめたくわらふ

 社殿には  ゆふべののりと
 ながちちの ぬさやさゝげん
 ながはゝは 事なきさまに
 しらたまの もちひをなせる」

〔下書稿(二)手入れ〕


 「おとなひくれば」:「訪ひ来れば」
 「ながいへ」:「汝が家」

 「もちひ」は古語で、お餅のことです。もともと「もちいひ(餠飯)」と言っていたのが、→「もちひ」→「もち」と変化しました。

 ここで、友人の家は神社だということがわかります。「杉むら」(スギの叢林)は、神社を囲む杉の木立ちでしょう。そこに、夕暮れの鳥の羽ばたきが聞こえ、鑓水の流れるかすかな音もしている静逸な空間です。社殿では、神主である友人の父が祝詞を唱えて幣
(ぬさ)を捧げ、母はお供えの白玉餅を用意しています。

 友人の苦境のかたわらで、両親は、なにごともないかのように日々の生活を営んでいます。「おもひ やぶれ」て帰ってきた息子に対して無関心なようにも見えなくはありませんが、むしろこの詩から感じとれるのは、黒く淀んだ杉並木のような、厳かで静かな安定感です。

 そして、「訪問」という題が付いています。神社である友人の家を訪問した時に、作者がいつも感じるなつかしい感じが現れています。そうした生き生きした状況が、この段階でのこの作品の「心象」です。

 「秋のあぎと」のモチーフは、背景に退いています。
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