宮沢賢治の《いきいきとした現在》へ


第5章 「心象スケッチ」がめざしたもの
3ページ/23ページ

.
「『あぎと』は『あご』である。では『秋のあぎと』とは何か。それが町を繞っているという形容から、私は、花巻の町を囲んでいる秋の山々と考える。山々の稜線が、巨大な動物または魚の大きく開けた口に並ぶ鋭い歯のように思えたのだろう。夕闇迫る野の道を一人たどっている賢治に、空全体が大きな口となり、山々の鋭い牙をむき立てて襲いかかろうとしているのだ。
〔…〕秋冷の夕暮が賢治の心を凍らせている。

 
〔…〕この2首、恐ろしさの原因はわからないけれども、恐ろしさの実感は十分にうかがわせる。」
小沢俊郎「『秋のあぎと』考」,in:栗原敦・他編『小沢俊郎宮沢賢治論集3』,1987,有精堂,p.31.





花巻城本丸から、紫波山塊の山なみ



 当時宮沢賢治がよく出歩いた場所は、花巻にしろ、盛岡にしろ、雫石にしろ、盆地状で周囲を山々に囲まれていますから、どこでもよいのですが、花巻は、周囲の山がみな適度に遠くて、“巨獣の歯に囲まれている”というかんじに近いですから、花巻と考えるのがいちばんいいかもしれません。

 それにしても、私によく解らないのは、「あぎと」は、空のほうだろうか、それとも山々と大地のほうだろうか、ということです。夕方ですから、黒いシルエットになった山々が「あぎと」の歯で、下から町を呑み込もうとしているのか?‥それとも、闇深い大地の上に、白いギザギザの空が浮いて見えて、上から襲いかかってくるかんじなのか?

 #737b738 に「ほのじろき/秋のあぎと」とありますから、空のほうかもしれませんが、

 #737 に「そらのはて/わづかに明く」とあるように、大地も空ももう真っ暗で(秋の日は鶴瓶落し!)、山々の稜線のあたりにだけ落日の光芒が残って、「あぎと」(山側)の“歯”の形を浮き出させている。その状態を「ほのじろき/秋のあぎと」と言っているのかもしれません。私は、山のシルエットが“歯”で、下から‥のイメージのほうがしっくりする気がします。つまり、大きく開けた口は、空に向かっています。

 たしかに、盆地全体を呑み込んでしまうかのように大きく口を開けた「あぎと」の真暗なシルエットは、なんだか不気味で怖ろしげです。しかし、追加された2首のほうまで視野に入れると、


「たそがれの
 森をいそげば
 ほのじろく
 秋のあぎとぞ
 そらを繞れる

 ほのじろき
 秋のあぎとに繞られて
 杜ある町の
 しづかに暮れたり」


 「ほのじろく‥そらを繞れる」「ほのじろき/秋のあぎと」「杜ある町の/しづかに暮れたり」というあたりの表現が、単に恐ろしいだけではない何かを感じさせます。恐ろしいにしては、ぼんやりして・はかないような、しんとしているような…、「あぎと」が襲いかかるという激烈なイメージとは違うものが、うまく溶け合えないで混在している感じなのです。

 #737 の「わがとらるゝらし」にしても、「あぎと」に呑み込まれようとする恐怖だけではなく、秋の夜の底深い静けさにとらえられて行くような、恐いのだけれども捕らえられて行きたいような、極端に言えば“捕らえられて食われるマゾヒズム”というか‥そんな気持ちが感じられます。

 ともかく、これが、最初の短歌を1回追体験した段階での「心象」だったのでしょう。なにか“こなれない”ものが残るのは、(おそらく)最初の体験のなまなましさを伝えているだと思います。そして、短歌の短い定型にはおさまりきれない・この作品の―――おそらく最初の体験の―――複雑な内実を表現するために、詩形への改作が行われるのです。
.
次へ
前へ  

[戻る]
[TOPへ]

[しおり]






カスタマイズ