宮沢賢治の《いきいきとした現在》へ
□第5章 「心象スケッチ」がめざしたもの
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宮沢賢治は、“現象”のなまなましさから切り離され“制度化”された‘理念’にとらわれることを、警戒しました。
‘理念’から距離を置き、宗教的「本体論」を相対化した賢治に、何か信念があるとすれば、それは、生起する現象そのものには、つねに‘理念’以上のものがあると、信じていたことです:
「なにもかもみんなたよりなく
なにもかもみんなあてにならない
これらげんしやうのせかいのなかで
そのたよりない性質が
こんなきれいな露になつたり
いぢけたちいさなまゆみの木を
紅からやさしい月光いろまで
豪奢な織物に染めたりする」
『春と修羅』「過去情炎」より。
すなわち、現象の観察から抽き出された理念や、構築された理論構成に安住してしまうのではなく、つねにナマの現象に回帰し、いきいきとした現象の明滅を生き、生きた世界を呼吸し、こうして“現象の世界”をしっかりと踏みしめながら、その背後に在る《本質》の世界を透視しようとしたのです。
この‘一回限りの体験’にこだわり、くりかえしくりかえしナマの体験に戻って、世界の《現れ》を汲み尽くそうとする「心象スケッチ」の方法は、現象学で言う《還元》にほかなりません。
宮沢賢治の「心象スケッチ」は、作者が現に生きて活動しているこの《心象》世界を、ありのままに、すなわち、雨の雫のように移ろいやすい主観の表面に映ったままを《体験》し、すべてをそこに根拠づけようとするものでした:
「何と云はれても
わたくしはひかる水玉
つめたい雫
すきとほった雨つぶを
枝いっぱいにみてた
若い山ぐみの木なのである」
『詩ノート』#1054〔何と云はれても〕[1927.]5.3.
それは、人間を外部から客観的に観察し探求する科学の眼ではなく、高所から眺めた超越的‘絶対真理’によって一切を論断しようとする宗教の眼でもありません。
《心象スケッチ》に盛りこまれた科学知識、宗教知識の断片は、それ自体を目的とするものではなく、
「それらの理論をくぐるのは、あくまでも〈生きられた世界〉の的確な〈記述〉を産み出すためにそうするにすぎないのである。」
岩川直樹『〈私〉の思想家 宮沢賢治 「春と修羅」の心理学』,2000,花伝社,p.179.
『心象スケッチ 春と修羅』巻頭の作品に、それとなく記された↓この控えめな“宣言”も、‥稜線の冠雪をはるかに望みつつ、眼の前の「おぼろな吹雪」――《現象》の体験に、つねに立ちかえろうとする孤独な決意にほかならなかったのだと思います:
「ほんたうにそんな酵母のふうの
朧ろなふぶきですけれども
ほのかなのぞみを送るのは
くらかけ山の雪ばかり
(ひとつの古風な信仰です)」
『春と修羅』「くらかけの雪」
(2012.11.25.)
(2015.2.21.改訂)
(2017.2.6.改訂)
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