宮沢賢治の《いきいきとした現在》へ
□第5章 「心象スケッチ」がめざしたもの
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(iii) 変貌する世界、ゆるがぬ眼差し
【この節のアウトライン】 宮沢賢治の作品を特徴づけている
のは、「心象」世界の生々流転に身を委ねる
柔軟さと、宗教も科学も相対化するとらわれ
のない想像力である。先入見と理念を排し、
かけがえのない《現象》へ立ち戻ろうとする
心性が、彼の生涯を貫いていた。
宮沢賢治の「心象」の追体験は、単なる記憶の再生ではなく、それ以上のものであり、むしろ、そのときどきの想像のおもむくまま、体験される世界の自由な奔流に身を任せるようなものだったと思います。
そのため、同じひとつの体験が、《追体験》のたびごとに、さまざまに異なる相貌をあらわにするのです:
「けれどもあの銀河がしらしらと南から北にかゝり、静かな裾野のうすあかりの中に、消えたたいまつを吹いてゐたこと、そのたいまつは或は赤い小さな手のひらのごとく、あるひはある不思議な花びらのやうに、暗の中にひかってゐたこと、またはるかに沼森といふおちついた小さな山が黒く夜の底に淀んでゐたことは、私にこゝろもちよい静けさを齋します」
宮沢賢治書簡[94](1918年12月10日前後)保阪嘉内宛て より。
「私共は一諸に明るい街を歩くには適しません。あなたも思ひ出された様に裾野の柏原の星あかり、銀河の砂礫のはなつひかりのなかに居て火の消えたたいまつ、夢の赤児の掌、夜の幻の華の様なたいまつを見詰めてゐるのにはいゝのですが。私は東京の明るい賑かな柳並木明滅の膠質光のなかではさびしいとしか思ひません。」
宮沢賢治書簡[153](1919年8月上旬)保阪嘉内宛て より。
「われら黒夜に炬火をたもち行けば
余燼はしげく草に降り
……みだるゝ鈴蘭の樹液その葉のいかに冴ゆるかも……
その熔くるがごとき火照りに見れば
木のみどり岩のたちまひ
……余燼よしげく草に降り……
たゞならずしていとゞ恐ろし」
『歌稿B・欄外(補遺詩篇U)』〔われら黒夜に炬火をたもち行けば〕
2通の手紙に書かれているのは、高等農林在学中の 1917年夏に、賢治と嘉内の二人で岩手山に登山した体験の思い出、『歌稿』欄外にメモされた文語詩は、同じ体験を、おそらく 10年以上あとに《追体験》して書いたものです。
この“二人だけの深夜の登山”の体験について、菅原千恵子さんは、↓つぎのように推定しておられます:
「〔ギトン注―――1917年、《アザリア》発刊の〕1週間後の7月14,15日に二人は岩手山登山を行っている。『岩手山紀行より(心の中の)』として嘉内の日記には79首の歌が記されている。〔…〕それは嘉内にとっては『心の中の』大切な岩手山登山であり、賢治にとっても、後の嘉内宛て手紙の中で、何度も何度もくり返し語られるほどの心に残る山登りであった。」
菅原千恵子『宮沢賢治の青春』,1997,角川文庫,3版,p.42.
岩手山・鬼ヶ城付近から盛岡市方面
「柳沢のはじめに
来れば真つ白の
銀河が流れ
星が輝く
松明が
たうたう消えて
われら二人
牧場の土手のうへに登れり」
保阪嘉内『歌稿日記』より。
「柏ばら
ほのほたえたるたいまつを
ふたりかたみに
ふきてありけり」
宮沢賢治『歌稿B』#547.
「二人はこの岩手山登山である誓いをたてたのだ。〔…〕二人の誓いは、互いの宗教性に裏付けられた真理の道、無上道、理想の国をめざそうというような誓いであり、その道を歩くためならば、自己犠牲も辞さないというものではなかっただろうか。」
菅原千恵子『宮沢賢治の青春』,pp.43-44.
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