宮沢賢治の《いきいきとした現在》へ
□第5章 「心象スケッチ」がめざしたもの
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「要するに宮沢賢治の文学観というのは、作品というのはその一瞬一瞬に変っていくものなのだ、逆にいえば、すべての瞬間に相わたるものなのだ―――こういう考え方をしていたようです。」
入沢康夫『宮沢賢治 プリオシン海岸からの報告』,p.306.
「作品行為に『終り』はない。〔…〕作品は存在する。だが存在するとは、静止した一点としてではない。時間の中を生と死をくりかえして変身・転生しながら、それ自らの時間をつくり出し、それになり変っていくのである。これは生前未発表のままの膨大にふえていく原稿をかかえこんで、そのひとつひとつに全的にかかわりながら生きた宮澤賢治の場合に、圧倒的に、かつ端的にあらわれた」
天沢退二郎『《宮澤賢治》論』,1976,筑摩書房,p.155.
ここで考えてみたいのは、限りなく推敲を重ねてゆくという宮沢賢治のこのような行為が、《体験》として何を意味するかです。
野山を歩きながら、目についた風景や思ったことを手帳にメモした段階では、それは“一回限り”のナマの《体験》です。帰宅してから、メモを詩の形に整理して紙に書き写した時にも、そのナマの《体験》が想起されているはずです。
しかし、その〔下書稿〕に、数日たってから手を入れ、あるいは何年か経ったあとで読みなおして推敲―――ほとんど改作に近い推敲を行なうばあい、賢治の場合には―――それは彼の資質によるのでしょうけれども―――文字の連なりとして観察し、“詩として”彫琢の手を加えるというよりは、想像のなかで現場を《再体験》して書いていたと思うのです。
何度目の推敲で書き加えた部分にも見られる叙述の“なまなましさ”は、そのことを証しています。
宮沢賢治の“推敲”とは、《追体験》にほかならなかった。彼のすべての詩がそうだったとは言いませんが、多くの詩は、そのようにして、何重にも《追体験》された跡をひきずって成立しているのだと思います。
もちろん、時間がたてば現場の記憶は正確でなくなります。事実が大きく違ってしまうばあいもあるし、まったく別の想像世界が現れてくることもある。しかし、前に書かれた〔下書稿〕とまったく違うできごとが頭のなかで《体験》された場合でも、宮沢賢治は、躊躇なく古い下書きを抹消して、新しい《体験》に更新していたと思われるのです。
もちろん、古い下書きも、それはそれでその時の体験であり、まったく破棄してしまうにしのびないときは、筆記具を変えたり、色を変えたりして、古い《体験》の層と新しい《体験》の層を区別して読むことができるようにしていました。そして、いったん消した部分を、何回か後の“推敲”の機会にはまた復活させる、ということも、賢治はしばしばしています。これも、どの形が作品としてすぐれているか、という考慮よりも、各時点での《体験》の内容しだい‥、その感覚的な整合性によっていたのではないかと、私は考えています。
ところで、このようにして、ひとつの作品に対して《再体験》と推敲が重ねられてゆくとき、作品の内容は、ただ単に平面的に変遷してゆくのではなく、しだいにある方向へ‥‥より一般的で普遍的なものをめざす方向へ、進んで行くのではないでしょうか?
いま、初期の短歌から晩年の文語詩に至るまでの改作・推敲の過程をたどることのできる作品をとりあげて、このことを検討してみることにします。最終的に文語詩定稿〔ほのあかり秋のあぎとは〕(『文語詩稿五十篇』所収)になるこの草稿群には、さいわい小沢俊郎氏による詳細な解釈研究があるので、それも参照しながら進めたいと思います。(「『秋のあぎと』考」,in:栗原敦・他編『小沢俊郎宮沢賢治論集3』,1987,有精堂,pp.30-43.)
「736 巨なる
秋のあぎとに繞〔めぐ〕られし
薄明をわがひとりたどれる。
※
737 そらのはて
わづかに明〔あか〕く
たそがれの
秋のあぎとにわがとらるゝらし。
737a738 たそがれの
森をいそげば
ほのじろく
秋のあぎとぞ
そらを繞れる
737b738 ほのじろき
秋のあぎとに繞られて
杜ある町の
しづかに暮れたり」
『歌稿B』#736-737b [1919年8月〜].
最初の2首が 1919年秋に詠んだもので、番号に a, b の付いている歌は、歌稿に後から書き加えられたものです。
「あぎと」を辞書で引きますと、「あご」「えら」「あぐ」の3つの意味があります。「あぐ(鐖)」とは、“釣り針の針先の内側に逆向きに付いている突起”だそうです。
しかし、「あぎと」に「繞〔めぐ〕られ」ているという言い方からすると、魚か恐竜の、歯の生えた大きな「あご」(くち)のイメージです。
ティラノサウルスの頭部、浜松科学館
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