宮沢賢治の《いきいきとした現在》へ


第5章 「心象スケッチ」がめざしたもの
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 スタンダールが『赤と黒』で追究したテーマは、主人公ジュリアン・ソレルに“あらわれ”を見いだす人間の「自由」「自我」の《本質》だったのか、それとも、ジュリアンが陪審員の前で表白しているような、彼の生き方の背景と言うべき階級社会の不合理、陰謀と偽善にみちた復古王制期の社会、個人の幸福と社会との関係‥といった問題だったのか、私にはわかりません。

 しかし、いずれにせよ、この小説は、ジュリアン・ソレルという、いわば偶然の一回限りの個人を描つつ、それを単に平板に書き綴るのではなく、抽象的・理念的な《本質》を目標にして(現象学のコトバで言えば「志向」して)描いているからこそ、私たちに深い印象と感動を与えるのです。





 作家は―――とくに、フランスや西洋の作家は、小説のなかで、哲学的な議論や社会批評のような言説をあからさまに述べます。しかし、読者に感銘を与えるのは、それらの論説ではなく、物語の筋と描写のほうなのです。思想や社会批判が眼目なら、哲学や社会経済の本を読んだほうが良い。理論的な論述には期待できない、なまなましい現実との出会いを求めているからこそ、読者は小説を読むのです。

 作家が描く物語は、いわば1回限りの“体験”です。もちろん、それはフィクションであり、モデルがいたとしても、現実にあったできごとを多分にモディファイした架空のできごとですが、それでも、“一回限り”であるという点は、現実のできごとの場合と異なりません。

 “一回限り”のできごとを《体験》(読書体験)することによって、理論では得られないような生き生きとした《本質》の理解を得ようとして、読者は小説を手に取るのです。

 これを作家の側から言えば、彼(彼女)は、“一回限り”のできごとを描くことによって、可能な限り研ぎ澄まされた《本質》の姿を読者に示し、いわば読者をして、《本質》そのものに出会わせることを求められていると言えます。


「フッサールの言う本質は、経験のもつ生き生きとした一切の諸関係を同伴して来るはずであって、それはあたかも、海底から引き揚げられた漁網が、ピチピチした魚や海藻を同伴して来るのに似ている。
〔…〕

 〔存在から〕分離された本質とは、言語上の本質にすぎない。言語の機能によってこそ、本質が一つの分離状態で存在するようになるのだが、この分離状態ですらも、実のところはみかけ上のものにすぎぬのであって、それというのも、言語によって分離された本質といえども、やはり意識の前述定的生活のうえに基づいているのだからである。原初的な意識の沈黙のなかに出現して来るのが認められるものは、語の言わんとするところのことだけではなく、さらにまた、物が言わんとするところのこと、つまり第一次的な意味の核もまたそうであって、この核のまわりに、命名ならびに表現の諸行為が組織されるのである。

 
〔…〕<世界の本質>を求めるということも、いったん言説の主題にまで還元されてしまったあとの観念上の世界なぞを求めることではなくて、一切の主題化に先立ってわれわれにとって在る事実上の世界をこそ求めることである。」
メルロ=ポンティ,竹内芳郎・訳「『知覚の現象学』序文」(原:1945年), in:木田元・編『人間の科学と現象学』,メルロ=ポンティ・コレクション 1,2001,みすず書房,pp.20-21.


 このように、芸術作品による《本質直観》は、なまなましい一回限りの《体験》から切り離された抽象的な《理念》を提示するものではありません。看取された《直観》は、いつでも「経験のもつ生き生きとした一切の諸関係を同伴して」現れるのです。


 宮沢賢治は、推敲を反復して行なううちに、《本質》をめざして行ったと言えますが、もちろん、抽出の母胎である《体験》の生々しさを切り捨てて、《本質》だけを取り出したわけではありません。彼は、いつでもナマの《体験》の記憶に立ち返れるように、最初のスケッチの時からの全・下書稿を手元において、推敲を進めたのでした。


「彼は多くの作品を病床の枕もとにおいた。
〔…〕彼はいつでもそれを手にとって見ていた。〔…〕

 こうして賢治は、頭の中に記憶する影像と、その影像を作品にしたものとをこまかく比較検討することができた。
〔…〕そしてこの場合、文字に表現した作品より、百五十億の脳細胞が記録したフイルムのような影像の方が、より、はっきりしていたということなのだ。」
森 荘已池「『春と修羅』異稿について」in:天沢退二郎・編『「春と修羅」研究U』,1975,学芸書林,p.95.


 私たちは、先ほど見た「秋のあぎと」草稿群でも、逐次10回を超える推敲を経て、作品の内容は研ぎ澄まされ、より《本質》に迫るようになっている一方で、最初の《体験》のなまなましさは失われず、むしろよりはっきりとした印象を与えるものになっていることを、確認できたと思います。


「一回性は、刻々と変化する刹那のなりゆきでありながらも、そのひとつひとつはどれも、とり消しようのない刹那の刻印である。
〔…〕この世に実在しない〔=体験されれば流れて消えてしまう―――ギトン注〕、やりなおせない事実、そこからすべてをやりなおす。森羅万象のなりたちを一から調べなおすために、感覚の生々しさにまでもどること、それが超越論的還元である。」
岡山敬二『フッサール 傍観者の十字路』,2008,白水社,p.115.
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