宮沢賢治の《いきいきとした現在》へ


第5章 「心象スケッチ」がめざしたもの
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宮沢賢治の《いきいきとした現在》へ

──『心象スケッチ』論序説



 5 「心象スケッチ」がめざしたもの―――


(i) 限りなき推敲、たゆみなき《本質観取》





  



【この節のアウトライン】 数限りなく繰り返される推敲とい
う賢治詩の《方法》によって、「心象スケッ
チ」は、不可避的に《本質》の叙述へと高ま
る。しかし、推敲という《追体験》は、作者
をくりかえし《体験》の現場へと引き戻すの
であり、作品は「心象スケッチ」たる内実を
たもちつづけるのである。



 前章では、作者自身が完成したと認めて、詩集『春と修羅』に発表した作品を中心に見てきましたが、この節では、賢治が遺した膨大な草稿群のなかから、ひとつの詩作品をとりあげて、推敲の過程をたどってみたいと思います。

 写真などで、宮沢賢治が遺した草稿類を見るとき、私たちを瞠目させるのは、そこに見られる凄まじいまでの推敲の跡です。

 ふつう私たちがイメージする“推敲”とは、よりよい詩や文章にするためにあちこちを直して、完成したものを作ることだと思います。ところが、宮沢賢治の草稿に見られる推敲は、そのような“推敲”の常識をはるかに超えてしまっています。


 下に写真を貼った「五輪峠」の草稿は、1枚の紙葉に数次の推敲が重ねて書きこまれていますが、これほどでなくても、何次かの推敲の跡があるのが賢治の草稿の“ふつう”の状態です。そして、大判の紙1枚の作品について、そのような下書稿の紙葉が何枚か存在します。

 つまり、ある下書稿の紙葉で何次かの推敲を重ねた後、その最終形を別の紙に書き写し、そこでまた推敲が何度も行われ、‥‥というように、“推敲”はいわば無限に繰り返されて、終るということがありません。ある段階で雑誌に投稿して発表した作品も、そこで“完成品”となるわけではなく、雑誌発表形に対して遠慮なく手を入れ、推敲は続けられて行きます。

 こうした実態は、詩でも童話でも、基本的に変りません。



 
口語詩「五輪峠」下書稿(一)おもて



「けれどももしも賢治の文学創造が、そのような、唯一決定的な作品形態をめざしているのでなかったとしたら……。

 それらの草稿に見られる推敲は、作品の最終的完成のために、ながい時間をかけて、あちらを直し、こちらをととのえる、といった、普通に考えられるような推敲ではなく、ある時に作品のはじめから終りまで一貫して手が入れられ、そこで一つの新しい完成形が成立し、それからまた時をおいて、はじめから終りまで通して手入れがされ、作品がさらに新しい完成形に達する、という具合に、その大部分が、いわば層をなして積み重なっているのだった。

 その都度その都度の完成と、そこからの転生、再完成の繰り返し。ここで、今さらのように思い合わされて来たのは、ほかならぬ賢治自身の『その時々の定稿』という言葉であり、『第四次芸術』という言葉、さらには『永久の未完成これ完成である/理解を了へばわれわは斯る論をも棄つる/畢竟ここには宮澤賢治一九二六年のその考があるのみである』といった言い方だった。

 これらの言葉は、賢治自身が、自分の『作品創造』のそのような独特のあり方について、はじめから十分に意識的だったことを、あかしていると考えられる。

 
〔…〕賢治の文学世界を『すべてにわたって読む』とは、幾重にも重なった『その時々の定稿』をすべて読むことであろう。」
入沢康夫『宮沢賢治 プリオシン海岸からの報告』,1991,筑摩書房,pp.159-160.

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