宮沢賢治の《いきいきとした現在》へ


第4章 “こころ”と世界
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 「冬にはこゝの凍つた池で」以下は、1月に訪問した時の情景です。ここでは、“気がかり”の対象である「こどもら」だけでなく、そのまわりの・1月の雪に埋もれた農場の風景までがよみがえっています。というのは、1月に出会った「こどもら」に向けられた作者の意識が、たいへん濃いものだったからにほかなりません。

 「こどもらがひどくわらつた」「から松はとびいろのすてきな脚です」は、作者の思い入れの濃さ―――官能的な感覚を含んだ―――を示しています。

「向ふにひかるのは雲でせうか粉雪でせうか」―――
以下では、1月の風景が、5月の風景と同等の鮮明さで、眼前に現出してきています。その風景のなかの「こどもら」に向って、作者は、

「氷滑りをやりながらなにがそんなにおかしいのです
 おまへさんたちの頬つぺたはまつ赤ですよ」

 と呼びかけるのです。

 ( )でくくられた5行は、このように、想起された過去の情景ではあっても、現在の情景と同等の比重で「心象世界」の一部となっています。( )でくくられているのは、吉本隆明氏の観察で言えば、地の文、つまり「物語を展開させている語り手の言葉とは全くちがうところから発せられたもの」
(吉本隆明「宮沢賢治の陰―――倫理の中性点」, in:『宮沢賢治の世界』,2012,筑摩書房,p.93.)だからです。

 私たちが、私たちが“現実”だと思っている世界に生きている時も、私たちは“眼に見える”ものだけを見ているわけではありません。机の上にある「リンゴ」は、“眼に見え”てはいないその裏側も丸くて赤いことを知っているからこそ、リンゴなのです。ここが自分のへやで、きのうも1か月前もここに住んでいたことを忘れていないからこそ、目の前に見える机は、「私の机」なのです。

 私たちの周囲世界―――宮沢賢治の言う「心象」世界―――は、想起された過去の世界や、想像力に支えられた背後の世界を含んではじめて成り立っているものです。「心象スケッチ」は、そのような私たちの生きる世界の構造を、自覚的に露わにして書いているにすぎないのだと思います。

 なにか、賢治という“特殊な”人の“こころ”の中に見えた奇異な世界を書いているわけではないのです。

 この「パート4」も、先のほうへ行くと、私たちには異形と思えるような世界が現出してきます。賢治自身、こんな想像は異様なのではないか、幻覚ではないかと、自分に疑いをもって悩むさまが書かれています。しかし、それらは彼の自由気ままな夢想というよりも、「心象」世界――周囲世界――のほうから、詩人の鋭敏な感性を捉えてくるものなのです。

 そして、私たちは、それらの“異様な”世界もまた、上で見たような「心象」世界の構造のなかで現出してくるのであり、“目に見える”世界と同等の比重をもって描かれているのは、なんら神秘的なことでも不合理なことでもない、ということを理解することができます。




小岩井農場:下丸耕地と岩手山


「春のヴアンダイクブラウン
 きれいにはたけは耕耘された
 雲はけふも白金と白金黒
 そのまばゆい明暗のなかで
 ひばりはしきりに啼いてゐる

   (雲の讃歌と日の軋り)

 それから眼をまたあげるなら
 灰いろなもの走るもの蛇に似たもの 雉子
〔きじ〕
     
〔…〕

 いま見はらかす耕地のはづれ
 向ふの青草の高みに四五本乱れて
 なんといふ気まぐれなさくらだらう
 みんなさくらの幽霊だ
 内面はしだれやなぎで
 鴇
(とき)いろの花をつけてゐる」
「小岩井農場・パート4」より。


 ↑ここでは、農場の耕耘された畑や、白い雲の浮かぶ空、強い陽ざしに照らされた雲の陰の部分、見えないけれども空の多角で啼いているヒバリ‥といった周囲の現実的な対象が描かれています。

 ( )でくくられた「雲の讃歌と日の軋り」は、作者が、大空にまばゆく光る雲のあいだに吸いこまれるように、浮かんで行ってしまいたい衝動に捉えられたことを示しています。

 しかし、この時点では、作者はまだ、地上の現実世界から離れてゆくことはありません。作者の視野のすみ、路の先に、キジが現れたのを認めたからです。作者の関心は、大空のかなた―――「眼をまたあげるなら」と書かれているように、それは、眼を落として瞑想することによって“見えて”くる世界です―――から戻り、地上の現実世界に注がれます。

 省略部分には、「雉子」の生態が、作者の観察した“一回限りの体験”のなまなましさで、描写されています。

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